IS(イスラミックステート)による人質殺害事件より、一か月以上経過した。この間に生活リズムがすっかり狂ってしまった。そこでこのブログも更新しないまま半月が過ぎた。
しかしこの辺で更新を再開したいと思う。その前にこの間起こったことを、書いておきたい。
まず「詩人の聲」の公演を二回行った。一度は作品を読み、二度目は、文芸の評論文の完成のために、散文を聲に載せた。評論文は「寺山修司論」である。これを活字で打ち出し、原稿を完成させるまで、かなりの精力を使った。出来上った評論文は、塚本邦雄とも、穂村弘とも違った角度で考察したものとなった。恐らく日本で初めての視点を提示出来たと思う。発表の場を求めて、数日前に投函した。これを見せた先輩歌人から、現代歌人協会会員に推薦された。入会出来るかはわからない。ただ大きな手ごたえを感じている。
次に、「詩人の聲」の公演を十回以上聞いた。様々な詩人の様々な表現方法を聞いて、作品鑑賞の幅が広がった。そしてこれが寺山修司論を書くきっかけとなった。「詩歌」に於ける抒情とは何かに関して、自分の見解が出来上がった。これも文章で纏めようと思っている。
また、「運河」「星座」「星座α」の歌会に数回参加した。作品鑑賞の幅が広がったとともに、評価の基準も確立した。今までは箇条書きの記事だったが、今後は文章での総括としたい。
それから、「未来」の若手歌人に呼ばれて、社会詠の話をした。他の結社の歌会に招かれたのは、初めての経験だったが、社会詠についての、全般的な理解が深まった。社会詠とは何か。まとまった文章にしようと思っている。
さらに、第四歌集を出す決意が固まった。「詩人の聲」の公演で、作品を取捨選択したい。今年の秋には出せると思う。
加えて、書評を書きたい書物が何冊かある。先送りしていたのだが、記事として纏めたい。短歌講座の講師、選者(Instructor)、雑誌への原稿依頼による仕事も増えた。昨年には見られなかった傾向だ。(確定申告で気づいた。さらに来年を期したい。)
最後に、ネット上で貴重な体験をした。奇異な体験だ。社会への意思表示の一つとして、これも記事にしたい。先輩の歌人からは「リベラリストの思想性を持った歌人となれ」と言われている。僕がリベラリストかどうかはおくとして、平和と民主主義を大切にする思想性のある歌人となりたい。僕の思想的立場は、家永三郎に近いだろう。
この一ヶ月近くは、かつて経験したことのない事件が次々と起こった。もちろん刑法上の事件ではないが、まさに、人生における事件だ。ある詩人から「自分の殻を捨てよ」と言われているが、病気療養の総括記事に書いたように、療養の過程で「重い鎧」が解けた。しかし、この一ヶ月近くで、知らず知らずのうちに、殻がいちまい捨てられたと思う。捨てることを短歌に表現することが、僕には多い。それを「後ろ向き」と言われたこともある。しかし、前へ進むために捨てなければならないこともあると、僕は思う。一つ捨てれば、一つ新しいものが背負えるからだ。そしてその新しいものも、古くなれば捨てよう。新たな一歩のために、要らざるものを捨てて行こう。