「スワンの会」三月例会 社会詠
世話役をしている中川宏子(「未来」)とは、日本歌人クラブの南関東大会で知り合った。また参加している嵯峨直樹(「未来」)とは、著書の贈呈をし合い、彼には『齋藤茂吉と佐藤佐太郎』の「運河」誌上の書評をお願いし、僕は嵯峨の第二歌集の書評を、このブログ上に書いた。嵯峨直樹が、『短歌研究』に穂村弘批判を執筆したとき、このブログ上で紹介し、賛成の意思を表明した。
そんな縁が重なって二人が参加する「スワンの会」という短歌会の例会に招待された。会場は渋谷の勤労福祉会館。「未来」のほかに「かばん」の会員の山下一路もいた。
そこで僕は「社会詠は成立するか」と題して話しをした。その概略は以下の通り。
先ず短歌は「現代の抒情詩」であり「定形詩」である。そのため必要なのは、人間を描くこと、韻文なのでリズムがあること、人間や社会を掘り下げる必要があるのを述べた。その上で社会詠の成立の根拠として、戦争を厭う気持ちは、人間としての自然な感情なので、スローガン的、勧善懲悪的になる危うさを孕んではいるが、抒情詩として成立しうるのを確認した。
その上で、短歌の作品は、作者の資質と生活が価値観、世界観を形成し、作品に投影すると述べた。だから社会詠はその人が持っている以上のものは作れない。政治や経済のことがわからなければ、それに応じた作品しか出来ないと述べた。
だから社会詠と言えど、抒情詩としての質が高くなければならない、他人事、借り物の言葉ではいけない、と結論づけた。
そのあとは『短歌』誌上での、実験作の経験を話した。1000首近く詠んで、成功は50首足らず。難しいものだと実感していると述べた。
そのあとで、「未来」の津波古勝子の、沖縄を題材とした、短歌作品を読み、沖縄問題の話を聞いた。彼女の作品は完成度が高い。故郷沖縄への「愛おしみ」に満ちている。だが意外だったのは、「未来」のなかで、彼女の評価が低いことだった。「未来」の中で、社会詠を詠む歌人も少なくなっているとも聞いた。隔世の感だ。
マルクスやトロツキーを語る、近藤芳美のまわりに、ヤングアララギアンが、集い、「未来」が大結社となったのは、時代の要請に合致したからだ。
しかし、聞いた話が本当とすれば、「未来」は、いずれ時代に合わなくなる。そんな危惧を抱いた。ここで思いだしたのは、岡井隆の言葉。
「いずれ日本は、国家国民のありかたが根本から変わるでしょう。その時に、時代に真向かい、その時代に相応しい、正岡子規や与謝野晶子があらわれるでしょう。」
安部政権の出現で、岡井隆の言う「その時代」が、到来していると僕は思うのだが、どうだろうか。
当日の話はその岡井隆の言動にも及んだ。岡井は「転向した」と盛んに言っていることについて。これも僕には驚きだったが、「寺山修司論」を書き上げた今、「岡井隆論」の準備に入っている。これへの参考となりそうだ。実は「寺山修司論」のヒントは、日本歌人クラブ南関東大会での、嵯峨の話がヒントになった。今度も重要なヒントを頂いた。