『星座』80号より「ブナの木通信」
(夕暮にねむの木の葉が閉じる歌)
合歓の木はマメ科の植物で夜になれば葉が閉じる。それが「ネム」の名の由来。街路樹なのだろうか、そのとき、空が広くなるという。作者の発見がある。
(秋の夜雨音を聴きながら眠りに落ちる歌)
床に就いたが眠られぬ作者。下の句の比喩が効いている。何か心に湧き来る思いでもあるのだろうか。
(子供らが茶をたてる歌)
学校の茶道部だろうか。文化祭の一場面か。茶を点てる子らへの温かいまなざしが感じられる。
(驟雨すぎ川面に写る空の歌)
雨後の美しい秋の情景が浮かびあがった。激しい雨のあとの寂寥感も漂う。
(母親と娘が旅先で居酒屋にはいる歌)
同性の子は長じてからはライバルとなる。戦国時代は父子の下剋上もあった。そこを上手くすくいとった。下の句に温かみがある。
(ようやく雨が上がり人間の無力を感じる歌)
今年も水害があった。地震、火山、台風など、日本特有の災害は多い。その前に人間は無力。自然への畏敬の念を忘れるのは人間の傲慢というもの。
(店先で惑星が描かれた時計に目がとまる歌)
店先に限らず日常生活の中では多くの物を目にする。そのなかで何に目を止めるか、作者の独自性が顕れる。
(電話を避けてメールを送る歌)
下の句はメールを送ることを言ったのだろう。工夫の余地があるという人もいようが、思い切った表現。上の句が言いえて妙。
(鳴きしきる蝉の声の歌)
(ナイアガラの滝の歌)
(母を残して帰る歌)
この三首も佳詠。
紙数の都合で批評ができなかったのでここに記す。最初の二首。叙景歌だが映像が浮かぶ。これが平凡なようで難しい。心理詠、象徴主義の作品もあるが目に見えるものを表現できずに何が表現できるだろうか。岡井隆も塚本邦雄も初期の段階では斎藤茂吉ばりの作品を残している。
三首目。母親への愛情が感じられる。目の付け所の奇抜さだけを競うのはほとんど意味がない。着眼点のよさと奇抜さは異なると僕は考える。