「前衛短歌は思想性を失った1970年に終わった」と『短歌』誌上で述べたのは岡井隆だった。前衛短歌は思想性があったと僕も考える。前衛短歌を言葉の修辞の面だけで語るのは一面的な見方だとも考える。逆に思想性の面からだけで考えるのも一面的だろう。
塚本邦雄を言葉の修辞の面から切り込んだのが本書だ。思想性の面からの叙述はほとんどない。言葉の修辞、古典和歌の伝統の復活。こういう面からの塚本像が浮き上がる。
当然のこと、塚本の思想性をうかがわせる作品は収録されていない。次のような作品だ。
・死海付近に空き地は無きや 白昼のくらき周旋屋に目つむりて
・ダマスクス生まれの火夫がひと夜ねてかへる港の百合科植物
・戦死者ばかり革命の死者一人も無し 七月 艾色の墓群
・五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独をもちてへだたる
このほかにも反戦を意識し、思想性をうかがわせる作品は多いが、塚本自身が自選した代表作も収録されていない。
著者も書いているように、これは島内景二個人の読みだ。だか特色がある。塚本の古典和歌への傾倒、遊び心の復活。ここに焦点が当たっていることだ。しかも塚本の遊びは古典和歌に対する深い洞察に裏付けられている。思い付きで遊んでいるわけではない。それが解明されている。ここの視点は重要だ。
その他にも塚本が漢字の表記の旧字体にこだわった理由、歌集ではなく小説などに収録された作品が取り上げられている。塚本の全体像はつかめないが独特の視点が面白い。
塚本の遊び心の裏に深い教養がある。ただ単に言葉遊びをしているのではない。軽い気持ちで遊んでいるのでもない。ここが本書の最大の特長だ。そこを読み違えると誤解を生じる。前衛短歌の歴史と作品を考慮して読む必要があろう。