「われの肖像」『運河』377号より 巻頭詠
・カフェラテの泡の消えゆくさまを見るわが煩悩もかくのごときか
・総論の終わりし部屋のすみに居てミルフィーユの味われは噛みしむ
・キリストの最期のような寒夜にてフクロウの鳴く声の聞こえず
・窓外のメタセコイアが揺れ居たり手紙書き終え顔をあぐれば
・幾年も埃かむれる自画像を見る思いして相手と話す
・軽々しき記事読む日暮しずかなる意思ふつふつと湧く思いする
・人がみな去りたるあとの部屋のなか息に曇れる窓硝子拭く
・馬鈴薯の芽は伸びゆくかしんしんと冷え深まれる冬の真夜中
・青銅の文鎮にぶく光り居り仕事おわりし書斎のなかに
・ほろ苦い追憶ありて真夜中にひとり起き出し青林檎むく
『運河』377号の巻頭詠。佐太郎短歌の特徴の一つは、「自己凝視」である。『星座』の尾崎左永子主筆も、「短歌を作る時ほど、自分に真向かう時はない。」と言う。
短歌が一人称の文学と呼ばれる所以はここにある。作品は作り置きがあるから、主題を何にしようか考えたが、短歌という詩形の原点に戻るつもりで出詠した。
『運河』では、少数派の、新仮名表記、文語口語の混合文体だが、年々、文語の比率が減っているようだ。混合の塩梅が案外難しい。全体のバランスを考えながら、言葉を選んでいる。
夜中になると、物思いにふけることが多い。ほとんど毎晩だ。そういった体験を、思い出しつつ作品化した。
発刊されてきてから、「巻頭詠」が良かったという、葉書を2通頂いた。一人は東京の先輩、もう一人は新潟の会員だ。この号には、僕の作品批評も掲載されたから、採り上げた会員からも、葉書を頂いた。いずれ記事にしようと思っているが、こういう通信が、結社にはいるメリットだと思う。
そろそろ同人誌と、呼ぶ時代が来ているような気がする。理由はその記事で書こうと思う。