岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

読書離れの原因は

2010年11月04日 23時59分59秒 | 国語教育の現場から
小中学生の読書離れがいわれて久しい。僕が小学生のときだった。その時に一冊も読みかけの本がない生徒が起立させられて、刑事裁判の被告よろしくクラス中から、様々意見を言われるという場面があった。小学生の国語の授業。屈辱このうえなかった。そうその「被告」は僕だったのだ。

 こうなるとやけである。

担任「なぜ読書をしないのか。」

 僕「(立ったまま)面白くないからです。読め読め言われるので、余計きらいになりました。」

担任「今の発言は深刻だね。みんなどう思う?」

 クラスメイトが次々と発言した。「針のムシロ」。この言葉をもし知っていたら、僕は耐えられなかっただろう。だが、「幸にも」その言葉を知らなかったので、僕は耐えられた。

 「裁判」は授業ひとコマぶん続いた。僕は立ちっ放しだった。

 帰宅後、何の気なしに書棚の本をにとった。坪田譲二編の「ふるさとの民話・東日本編」だった。面白かった。すると「西日本編」も読みたくなった。家にある本のタイトルを見て、面白そうなものを読んだ。10ページ読んで面白くないのは、読むのをやめた。

 家にある少年少女むけの月刊誌も次々とよみあさった。読書が知的好奇心を満たすものであることを、初めて知った。

 それからは芋づる式に、つぎつぎ本を読んだ。

「ジャンルが偏っている。」「同じ本を何度も読んで」と色々言われたが、あまり気にしなかった。

「好きなものは、好きだもの。」

 つまり、自分の好きな本のジャンルをまず見つけることがまず重要なのだ。それは大人の読ませたい本とはしばしばくいちがう。子どもが自分で見つける他はない。だから、大人が読ませたい本と違っても構わない。ジャンルも徐々に広がっていく。

 10ページ読んでつまらなければ、途中でやめてもいい。そのかわり大切に保存しておく。あとで興味を持つこともありうる。

 僕の家に今、本が溢れているのを小学校のときのかの担任が見たら、さぞかし驚くだろう。


 最後に大人の禁句を三つ。

「家にたくさん本があるのだから、まずそれを読みなさい。」・・・うえっつ、こんなに読まなきゃならないのか。子供の意欲はなえる。

「せっかく買ったのだから、全部しまいまで読みなさい。」・・・つまらない本を辛抱して読むのは、難行苦行だ。もう金輪際、本なんか買わない、と子どもは思う。

「本を読みなさい。」をただ繰り返す。・・・子どもは義務感と、嫌悪感を増幅させるだけになりかねない。

 その子はどんな本に興味を持つか、どんなことに知的興味をもつのか。これを子どもと一緒にさがすのがいい。新しい本を買う経済的余裕がなければ、公立の図書館を利用するといい。それも子ども一人で行かせるのでなく、いっしょに行く。書庫をまわりながら、大人が興味しんしんという表情で本を手にとる。子どものためにさがすのだから、大人自身の興味のある書棚ではいけない。

 何となく歩いていて、子どもが立ちどまったところで面白そうなものをさがす。そして大人が楽しそうに本をめくる。

 まるで「放任主義」のようだが、実は「楽観主義」なのだ。「知るは楽しみ」という。自分の気に入った書物を読むのは、もともと楽しいことなのだから。






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