斎藤茂吉の作品で初めて知ったのは次のもの。
・みちのくの母の命をひとめ見んひとめ見んとぞただにいそげる「赤光」
原作は「ただいそぐなり」の結句だった。これでは報告的になるので、冒頭のように改作され、臨場感を出した。語感のよさがここに現れている。
斎藤茂吉には秀歌もあるが、凡作も駄作もある。残した作品が多いだけに当然の帰結だろう。電話の原稿依頼に電話口で作品を口述したとは有名な話。これでは推敲も何もない。売れっ子作家ならではの逸話である。
その斎藤茂吉の作品の中で、魅力があるのは「赤光」に収録された作品群だろう。
・隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの実食ひたかりけり
作者は幼児期に箒ぐさの実を食ったと知られている。それを回想しながら人の死を見守っている。何か斎藤茂吉の死生観を表しているようでもある。斎藤茂吉は「ひたぶりに」行きたいのだ。だからこの一語が非常に効いている。
・赤茄子の腐れてゐたる処より幾程もなき歩みなりけり
赤茄子はトマトであるが、トマトが腐って落ちているところを、横に見ながら通り過ぎた、と言うだけの意味。どういう抒情か。作者は「作歌四十年」で、「何らかの思いがあったのだろう」と何気なく書いているが、独特の情感がある。意味を問うより、前衛短歌の塚本邦雄的作品だ。
・のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ梁にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
止まっている梁はおそらく家の入口か。その家で母が死のうとしている。家の構造によっては家の中の梁かもしれない。鳥も玄鳥ではないかも知れない。小鳥なら家の中に巣をつくる場合もあるだろう。手塚治虫の「ブラックジャック」の一場面にそういう設定があった。その場面の鳥の巣は人工的なものであったが、無いとは言えない。なくともそれを連想させるだけの力が作品にはある。「ふたつ」が親子を連想させる。ともかく連想の膨らむ作品だ。
こういう作品は「アララギ」にはなかった。それが伊藤左千夫との確執を呼び、「アララギ」内で「斎藤茂吉」のまねをするな、と言われた所以だろう。
同門の、島木赤彦とも土屋文明とも異なる独自の作風だ。そこに最大の魅力がある。