日本歌人クラブ南関東大会 於)神奈川県民活動サポートセンター(県民センター)
日本歌人クラブ南関東大会は、神奈川、埼玉、千葉の三県で、順繰りに開催される。僕は病気療養中だったので、神奈川で開催されるときだけ参加してきた。
このブログを開設したばかりのころ、「北原白秋」をテーマとしたパネルディスカッションがあった。そこで、斎藤茂吉と北原白秋が、同じ題材の作品を残しているのを知った。このことは、写実と象徴の関係を考える上で貴重だった。『斎藤茂吉と佐藤佐太郎』(角川学芸出版刊)に「斎藤茂吉、北原白秋歌合せ」というタイトルで書いた。
こういった大会は、歌論の進展にも、実作上の問題を考えることにとっても、貴重な体験だ。
今回も新しい発見があった。
1、 松平盟子による記念講演 「晶子と啄木ー姉弟のような親愛とふたりの短歌」
与謝野晶子と石川啄木は、同時代を生きた。雑誌『明星』の有力な書き手でもあった。講演は二人の年譜を辿りながら行われた。
印象に残ったことが、幾つかあるので紹介しよう。
二人は「浪漫派」だが、この「浪漫派」の隆盛の背後には、日清戦争の勝利のあとの社会の高揚があるということだった。日露戦争が「青息吐息」で終わったことにより「浪漫派」にかわり「自然主義文学」が文学の中心となった。これで『明星』は廃刊する。
与謝野家の経済状態は悪化し、与謝野晶子が出版する歌集などしか収入源がなかった。かなり厳しい生活を強いられていた。それから脱却するために、与謝野鉄幹はパリへ遊学し、晶子もそれに続いた。これが二人の文学の新境地となった。
石川啄木は、『明星』最盛期のころ文学を志し、たびたび上京して、与謝野夫妻にかわいがられた。『明星』に発表した、短歌には、晶子の『みだれ髪』の影響が大きい。のち、石川啄木は、社会との格闘があり、心情的には「自然主義」を志向するようになる。しかし松平によると、志向しても文体が確立できず、その苦悩が、「食らうべき詩」や、『哀しき玩具』にあらわれていると言う。
啄木が失意の中で死んだのは「才能だけに生きた」ためであり、与謝野夫妻が活動を継続出来たのは、「パリ遊学」が大きな影響を与えたと言う。
才能があっても学習を怠れば、「才能を活かすことは出来ない」のだろう。「浪漫主義」から「自然主義」への転換については、文学潮流の盛衰には、時代の要請、時代の投影があるのだろう。
穂村弘は「バブルを背景に出て来た」と言ってはばからないが、時代に乗っかっただけでは、先はないだろう。そんなことを考えた。
2、パネルディスカッション「寺山修司の比喩を考える」
ここでは、4人のパネラーが、直喩、暗喩に分けて、意見を交わした。様々なことが論じられたが、寺山修司の作品には、「少年時代の回想」「故郷に対する複雑な思い」「母との気持ちのすれ違い」「父を戦争で亡くした喪失感」など、極めて私性が強いことが感じられた。文体は奇抜で、装飾過剰なところがあるものの、作品の主題は明確だ。これは新しい発見だった。
「詩人の聲」への参加は、50回を越えた。そこで学んだのは、それらしき言葉が並んでいても、作品の主題がなければ文学たりえないということだ。プロジェクトに参加している詩人たちはそれを聞きわける。
最近感じていたことを、別の方向から確認した気持ちだ。僕はこの八月に京都で開催される「塔短歌会」60周年のシンポジウムに参加する。発言の機会があれば、このことを報告したい。