『齋藤茂吉と佐藤佐太郎』角川学芸出版 刊 自註
「短歌の遊びの要素があり過ぎる。」短歌を本格的に詠むようになった頃に、こう考えた。かと言って、カビの生えたような古臭い言葉遣いの短歌を詠もうとも思わなかった。
僕が短歌を詠み始めたのは、15年ほど前のことだった。当時は『短歌研究』などに「以外に強い近代の磁場」といった特集があった。前衛短歌の影響を受けて、暗喩を多用した作品も、総合誌上に散見された。
しかし、「何かおかしい」という感覚は拭えなかった。言葉を飾った作品が多いとも思った。『短歌』誌上の「前衛短歌はなんだったのか」の特集で、佐藤弓生は「前衛短歌は暗喩地獄だ」と発言している。つまり「何でもアリ」が短歌の主流になってしまっていたのだった。
言葉遊びが多すぎる。
今、参加している「詩人の聲」のプロジェクトでは、「外国語に翻訳するに値する作品を」と、よく言われる。言葉遊びは翻訳出来ない。つまりは近代短歌と短歌界との乖離があまりにも激しいとも思ったのだ。
そこで僕はこのブログを開設した。そして齋藤茂吉と佐藤佐太郎の作品を読み、彼らの歌論をまとめ、その起源を辿ってきた。本を刊行したときに「アララギ」のデータバンクとして興味深い、という趣旨の葉書を頂いた。
近代短歌に学び、そこから新しい芽を見つけようとブログの記事を書き、本を刊行した。第三歌集『剣の滴』の「あとがき」で歌論の展開の余裕がないと書いたが、その歌論のまとめが本書だ。
それに加え、歌壇の戦後が終わっていないという想いも強かった。本書の中で、斎藤茂吉、斎藤瀏の戦争責任を問うているのはそのせいだ。斎藤劉に関して、藤原龍一郎氏の言説に対する反論は、当ブログのカテゴリー「茂吉佐太郎原論」を参照して頂きたい。
また、佐藤佐太郎の系譜を引く歌人が「佐太郎調」に拘っているのにも違和感を感じた。だから、本書の中では「佐藤佐太郎の『純粋短歌論』に学ぶ歌人が100人いれば、100通りの新風があらわれる筈だとも書いた。
本書の内容は、四つほどにまとめられる。「斎藤茂吉と佐藤佐太郎の作品の特徴」「斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論の特徴」「斎藤茂吉に先行する『写生論』の概略」「斎藤茂吉の戦争責任」。
内容の性質上、秋葉四郎、三枝昂之の著作に対する批判も、一部に書いた。これを機に、近代短歌に学んだ、「新風」が現れる素地を作れたと思っている。
*評論集『斎藤茂吉と佐藤佐太郎』(角川学芸出版)は『短歌』編集部へ御注文下さい。(正誤表つき)*