・赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
「赤光」所収。
「赤茄子」はトマトの旧称。作者は道を歩いている。おそらくは道端に腐ったトマトが転がっていた。潰れていたかも知れぬ。
そこを通り過ぎて、程なく、作者は何らかの感慨を受けた。どのような感慨か。それは作者にも判然としなかったらしい。
斎藤茂吉の「作家40年」のなかでも「何らかの」と述べるにとどめている。
だがこの不思議な感触は何だろう。「八月の濡れた砂」という名の映画があったが、その感触とも重なる。不思議な感慨。明治人としては突飛ともいえる感慨だ。
そこが時代をこえて残った理由だろう。斎藤茂吉の「赤光」が、時に「明治の前衛短歌」と呼ばれる原因でもあろう。
当時の「アララギ」の内部で「斎藤茂吉の真似をするな」といわれたのもさもありなんだ。