岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

ブナの木通信「星座77号」より

2016年05月07日 21時17分15秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
ブナの木通信 「星座」77号より


 毎回述べているが、「定形の現代詩」と考えるなら、人間や社会への掘り下げが不可欠だ。感想文や事実報告では意味がない。


 (竹林の様を懺悔、祈りと捉えた歌)


 (山茶花の花を心象と結びつけた歌)


 この二首は自然を素材にしているが、人間、おそらく作者の心情を暗示している。上の句に直喩が使われているが、短歌の表現方法のひとつだ。


 (背後より朝の日を受ける歌)


 (片足のキリギリスの歌)


 (朧夜の土に芽吹くものの歌)

 視覚で捉えたものを表現した三首。これにも、作者の揺れる心、動植物の生命力が的確に表現されている。事実報告ではない深い意味がそこにはある。


 (静かな寒椿の歌)


 散る直前の寒椿の生命力を捉えるとともに、歌柄が大きい。特に結句が効いている。

 (最期まで病気の愚痴を言わずに逝った夫の歌)

 御夫君の死を詠んだ歌だが。結句の表現に作者の歩んできた人生の在り様が感じられる。他の5首にも、作者の生きる意志の強さ、或いは御夫君への愛おしみが表現されている。


 (わたしはいつまで私であるか)

 (かの人への未練の歌)

 自己を見詰めた作品である。自分とは何か、自分の今の心情は如何なるものかに対する問いがある。

 (かつての幼子が作者を気遣う歌)


 この幼が子であるか孫であるかは、一首からは読み取れない。しかしここには半世紀に及ぶ作者の生き方が表現されている。




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