・くれなゐの牡丹の花は散りがたにむし暑き日は二日つづきぬ・
「白桃」所収。1933年(昭和8年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」173ページ。
「作歌40年」「白桃・後記」にも自註はない。佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」にもとりあげられていない。目立たない作品だ。
詞書に「左千夫忌」とあるが、作品中に「左千夫」「先生」の言葉がない。「左千夫忌」の作品はあと二首ある。
・君がをしへ受けつるものも幾人(いくたり)か既に身まかり時ゆかむとす・
・この世にしいまさば七十歳(ななそぢ)の翁になりていましたまはむ・
伊藤左千夫の教えを受けた者は、島木赤彦はじめこの世を去ってしまった。その愛惜が冒頭の作品の初句から四句目までに暗示されている。「くれなゐの」「散りがた」「むし暑き」がそれである。特に「むし暑き」は息苦しいほどだ。
暗示は茂吉の歌論の核のひとつだが、それが効果をあげている。
伊藤左千夫と島木赤彦・茂吉の論争は、「写生」の捉え方、「調べと内容の関係」にしても、のっぴきならないものだった。しかし、伊藤左千夫なくば「アララギ」がまとまらなかったのも事実だ。
しかし「心酔」した師と違い、思いも複雑だったろう。だからこそ左千夫の死を聞いて、茂吉は暗い道をひた走ったのだ。「赤光」初版も左千夫の死を聞いた悲報来から始まっている。
それから20年の月日が経った。やや大袈裟にいえば、まさに「恩酬の彼方に」である。自分を含め、「アララギ」を支えた島木赤彦・土屋文明は伊藤左千夫の直弟子。「アララギ」隆盛の基礎を作ったのが伊藤左千夫であることに間違いはない。
冒頭の作品に比べ、残りの二首は形式にはまった感じがぬぐえない。冒頭の作品だけが、文庫本に収録された理由もこのあたりにあるのだろう。
目立たないと言っても、冒頭の一首は歌会にかければ、高く評価されるだろう。用語が古風なのは別として。それが作歌時の「現代短歌の用語」だったのだ。それをあれこれ言うのは、作品理解としては少し違うと思う。
それにしても目立たなく、平凡な作がこの水準である。やはり斎藤茂吉は「近代短歌の巨人」だ。岡井隆・塚本邦雄の前衛歌人が熱心に茂吉を読んだのもむべなるかなだ。