岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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行く夏を詠う:佐藤佐太郎の短歌

2011年07月05日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・夏のゆくときのしづかさ粟畑も陸稲(をかぼ)の畑も青き穂を垂る・

「群丘」所収。1959年(昭和34年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」113ページ。

 語註が必要だろう。

「粟(あわ)」:雑穀で食用だが、今ではほとんど栽培しない。せいぜい小鳥のエサくらい。だが昔は米と混ぜて「粟飯」にしたり、餅にして「もちあわ」とした。万葉集の東歌に見られる。五穀(米・麦・粟・豆・黍)の一つ。

「陸稲(おかぼ)」:「りくとう」とも言い、稲を水田でなく土に直接栽培する。

 ともに食用の穀物だが、水の得にくい台地で栽培される。関東平野は川沿いを除き台地が多く、落花生・野菜・かんぴょうなどを栽培するが、1960年代中ごろまでは、陸稲・雑穀の栽培が多かった。

 この作品には佐太郎の自註がある。

「これも散歩にでかけたときの作。< 夏のゆくとき >は晩夏、熱い晩夏の日中に< しづかさ >をみとめたのだが、これは人も歌にしているだろう。この歌ではその具体としての粟の穂、陸稲の穂を見ている。・・・粟でも陸稲でも青々とした葉の色がこころよい。しかしこの歌ではみずみずしい穂の色が主である。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

「夏の行くときの静かさ」は主観。この頃は熱帯夜が続き真夏日も珍しくないが、1960年代くらいまでは8月の終わりに秋の気配を感じたものだ。

 その主観を粟と陸稲のみずみずしい穂の色の描写が支えている。現在では粟畑も陸稲も滅多にみないから、現代風に表現すれば、畑の作物や稲穂の波となるか。ただ野菜は季節に関係なく栽培されるようになり、稲穂では平凡になり易いから、なかなか難しかろう。

 都市化とともに失われて行く風景。その都市のなかに季節感を発見する目がますます必要となる。





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