土門拳のエッセイ集「死ぬことと生きること」の中に <写真家志望の青年へ>という一文がある。大学へ行かずに内弟子にしてほしいという青年への返事という体裁をとっているのだが、そのなかに次のような記述がある。土門拳はその青年に次のように大学進学を勧め、内弟子になりたいという青年の申し出を断る。
「大学の学生生活は、いわば、樽のなかで里芋を洗うようなものだ。・・・向学の野心と情熱に燃える青年たちが、お互いに切磋琢磨し合うわけである。それは、ポツンと一つでころがっている里芋には期待できないことだ。・・・」
大学時代には授業以外に様々な活動がある。僕にとっても思い当る事がいくつかある。ここで三つほど書こうと思う。
ひとつは、安酒を飲みながら友人と議論をしたこと。カテゴリー <日本語をめぐって> のなかの「議論の仕方」の内容のベースはこのときの経験にもとづいている。今から考えれば「稚拙な議論」もあったが、決してマイナスにはならなかった。くわしくはそちらを読んで頂きたいが、付け加えが一つある。
議論をするときある種の禁句があった。「本当の」「真の」という言葉である。この言葉が発せられるやいなや、さまざまな言葉が浴びせられる。「何を以て <真の・本当の>というのか」「 <本当のものと> <本当でないもの> は何によって区別されるのか」。議論には「自分の意見を明らかにして、相手を説得する」という側面があるから、「真の」「本当の」という言葉ははなはだ魅力的である。しかしこれらの言葉は、追い詰められて使うことが多かったから、聞いた途端に相手の苦渋も手にとるように分かる。「真に」「本当に」という言葉は、現在でも要注意である。どこかにゴマカシがあったり、使った人間の理解の浅さがかいま見えたりすることが少なくない。
(それでも「本当の」「真の」と言う言葉を連発する者もいたが、議論の肝心な部分には入って来れなかった。本人は自覚していないようだったが。)
二つ目は、哲学・経済学・政治思想の書物を読んだことだ。文学部で日本史を中心に学んでいたが、ジャンルの違うものも読みたくてしかたがなかった。一人では読めないのでサークルに入った。なかでも、経済学の「原論」はかなり苦労し、在学中には中途半端に終わってしまったが、卒業後に時間をかけて、全5巻を読み終わった。
「捨象」という言葉がある。「物事の核心を残し、個別具体的なものは捨て去る」ということ。「経済学原論」で散々苦労して理解したこの言葉に久し振りに出合ったのは、短歌を詠みはじめた頃だった。
「この作品では煩わしい具体的な人間関係は見事に捨象されて、核心だけが残っている。」
尾崎左永子著「現代短歌入門」の一節だった。「捨象」という言葉を聞いて、「表現の限定」「個別具体的なものの削ぎ落とし」ということの意味が一度に理解できた。読書で得たものがどこでどう役に立つか分からないものである。
三つ目は、国会図書館をのぞけば、当時東洋一といわれた早稲田大学図書館を今でも利用できることだろう。大学へ行くということはこういったチャンスに巡り合うということでもあるのだろう。このブログにはさまざまな文献の引用や内容の要約があるが、そのうち半分以上は早稲田大学図書館で「学友(卒業生)」の資格で入館手続きをとって、コピーを入手したものである。