「短歌作品を鑑賞・批評する場合、作品を一義的に考える。作者のそのときの境遇や時代状況は、あくまで背景として考える。」とよく言われる。「作品を鑑賞するときは作品そのものだけをとりあげなさい」と注意もされる。その通りなのだが、僕のなかでは斎藤茂吉や佐藤佐太郎がどんな時代にどんな生活をしていたのかということは、作品そのものと一体化している。
何故かというと「人間は時代の子である」という考えが、僕の思考回路のなかに深く刻印されているからだ。「現代短歌」からみれば、斎藤茂吉も佐藤佐太郎も「古典」であると僕は思っている。古典和歌の鑑賞には作者の生きた時代が考察に加えられる。とすれば、茂吉や佐太郎の作品を読む時にそういった視点があってもいいのではないかと思う。
また、このように考えるのは僕が大学で近現代史を学んだことにも由来するかも知れない。作者の生きた時代がどういう時代であったかがどうしても気になるのだ。こういう読み方は「深読み」につながる危険もあるのだが、作者の生きた時代背景なしに、作品の読みは完成しないとも思う。
正岡子規。伊予松山藩の武士の家に生まれたが、廃藩置県ののち生活のかてを失って、藩に仕える以外に立身を求めた士族の姿に重なる。
長塚節。士農工商の身分制度がなくなり、立身の道が開けた豪農の姿を思う。伊藤左千夫も比較的裕福な中農であった。
斎藤茂吉。当時力をつけつつあった都市インテリゲンチャの姿を思う。ごく大まかに言えば、この層が立憲改進党の支持基盤となる。茂吉の養父が衆議院議員に立候補しようとしたのも偶然ではあるまい。
子規から茂吉の世代は明治維新から日清・日露戦争を経て、「富国強兵」「脱亜入欧」のスローガンのもと、「ナショナリズム」が形成された世代だ。松山時代の正岡子規は土佐へ足を運び自由民権運動の演説会に参加しているが、その自由民権運動が「士族民権」「豪農民権」と性格が変わり、やがて「民権」が「国権」へ飲み込まれてゆく過程も頭をかすめる。
佐藤佐太郎や坪野哲久の若い頃の作品や作歌の態度には大正デモクラシーの影響を感じ、そして戦後短歌も同様で、戦後史とのかかわりを感じる。(<カテゴリー「短歌史」>の「坪野哲久」の記事参照)。
作品と作者の背景に時代状況を強く感じるのである。作品の読み方としては「異例」かもしれないが、時代背景を常に意識することは作品の立体的な理解につながるような気がする。
そしてそれは大学で歴史学を学んだ僕ならではの、読み方だと思う。正岡子規、与謝野鉄幹・晶子、佐々木信綱以来の近現代短歌の歴史が大学で学んだ時代とそっくり重なるのである。
また、大学1年生の教養演習の最初の授業で、大学の図書館の書庫にいれてもらえたのも大きかった。首都圏では国会図書館につぐ規模と言われる早稲田大学の蔵書を直接目にし、「利用しない手はない。」と実感したのは大きな意味をもっていた。他大学の関係者では利用できないこともある蔵書を利用する機会を得たのは何よりで、佐藤佐太郎の「純粋短歌」の初版本にめぐりあえたのも、この書庫だったからである。