大学時代僕は文学部に通っていたが、1年生の教養科目のひとつとして「法学」を履修した。歴史研究にあたって「近代法」を理解しておくことは、前近代の「武家法」を理解するのに必要だと思ったからである。翌年の専門科目には「中世法制史」の授業が待っていた。
その「法学」の前期レポートの課題は「法と道徳」だった。難しそうな課題だが、そこは教養科目。授業のなかで主要な法学説は紹介されていた。つまりは、授業を聞いていたかということと、それに関する自分の見解を述べれば済む。
「法と道徳」については、基本的な学説がふたつ紹介されていた。
その一つ目。「法は強制力があり道徳には強制力がない」。これには「国家」とは何かという問題が絡んでくる。
二つ目。「法がカバーする範囲より道徳のカバーする範囲の方がひろい」。これにはその人間社会に広く受け入れられている「規範」の問題が絡んでくる。ヒンズー教徒にとっての牛肉、イスラム教徒にとっての豚肉の受け取り方を考えればピンとくる方も多いだろう。
その辺りのことを纏めてレポートにしたのだが、そもそも「道徳」の捉え方が曖昧だと気づいたのは、レポート提出後だった。
イギリス人の知人の周りに集まって、ディベートをしようとした時に討論テーマを決めたときのことである。
「今日はモラルについて話そう。」とイギリス人の知人が提案し、「モラルとはなにか」と彼が尋ねるた。日本人はみな「ゴミのポイ捨ての問題」「列の順番を乱す問題」「公共の場での行動に責任をもつ問題」と答えたのだが、そのイギリス人は首をかしげる。そしてこう言った。
「それはモラルではなく、マナーの問題だ。」
結局、討論テーマは「生の尊厳」といった哲学的問題に決まった。英語でのディベートが始まったが、僕はかのレポートの問題を考えていた。
「道徳というが、マナー・道徳・倫理・哲学。この違いをどれだけの日本人が認識しているのだろうか。」
「子どもの行儀が悪いのは道徳心がないからだ。」などという言葉を聞いて違和感を持つようになったのは、それ以降のことである。
・自らを抹消したき思いあり 戸籍抄本渡されるとき・「夜の林檎」