・ためらひもなく花季(はなどき)となる黄薔薇何を怖れつつ吾は生き来(こ)し
「尾崎左永子八十八歌」所収。
刊行年2015年の段階での自信作を収録したもの。来し(「きし」と読まず「こし」と読むには佐太郎門下に共通、「自己凝視」の深さは佐太郎ゆずり。だがこのように鋭い感覚の「自己凝視」は作者独自性だ。
「黄薔薇」(きばら・きそうび)のどちらでも「字足らず」それでも下の句は定型だからきちんと収まる(きばら・短か過ぎ、きそうび・ならば「自己凝視の屈折した心情を表現できる」。或いは(こうそうび)これなら定型になる。多分これだと思うが、作者が元気なうちに確認しておくべきだった。
佐太郎に学び、同じ佐太郎門下でも独自性が出せるのだ。そんなことを考えさせられる一首だ。