前衛短歌の特徴が、「近代とは異なった国家観」「直喩・暗喩の多用による難解性」にあったとすれば、それを成し遂げるためにしなければならないことは斎藤茂吉を超えること、つまり斎藤茂吉の影響からのがれることだった。
そのための道筋はふたつある。その第一は、斎藤茂吉そのひとの作品と歌論の研究から出発する方法であり、第二は全く別の発想から出発する方法である。
前者の道を辿ったのが、塚本邦雄・岡井隆・葛原妙子である。
岡井隆の両親がアララギの会員であり、斎藤茂吉に師事していたことはよく知られている。また、岡井隆自身も「アララギ風の歌を作っていた」とみずから述べているし、斎藤茂吉やその周辺についての著作も多い。(「遥かなる斎藤茂吉」「斎藤茂吉・人と作品」「茂吉の万葉」など。)
葛原妙子も女学校高等科時代に、斎藤茂吉の「あらたま」を入手したのが、作歌活動に入るにあたっての大きなファクターであった。
塚本邦雄が「茂吉秀歌・全五巻」を著し、その最初の二巻を「赤光」「あらたま」にあてていることはすでに述べた。北杜夫が解説を書いているが、塚本は茂吉の作品を極めて精密に研究している。「赤光」「あらたま」に収録されている作品の幻想性・象徴性についてもすでに述べたが、これが塚本邦雄の作品に影響を与え、茂吉を乗り越えようとしたことは明らかだろう。
後者の道を辿ったのが寺山修司である。寺山修司が「第二回短歌研究新人賞」をとったのは、斎藤茂吉の没年の翌年である。その作品が従来の短歌作品と異質なものであったこと、寺山修司の作品が俳句にその基盤をもっていることは、「寺山修司青春歌集」巻末の、中井英夫の「解説」に詳しい。中条ふみ子も同じ。中井英夫が「解説」に詳細にのべている。ちなみに中条ふみ子は「水甕」の系統といわれる。一時、「水甕」かその系統の結社に所属していたという。この意味でも茂吉とは異質である。
総じて言えば、「前衛短歌」は斎藤茂吉を越えようとしたところから始まっており、斎藤茂吉なくば「前衛短歌」の目指したものも語れないとおもうのだが、いかがだろうか。(終り)