岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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吉野山の鐘の音の歌:斎藤茂吉の短歌

2011年11月07日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・くろぐろとしたる杉生(すぎふ)に沁入るがに吉野の山に撞(つ)く鐘のおと・

「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」189ページ。

 まず茂吉の自註。

「吉野山で作った歌から三首抜いた。・・・梵鐘の音が吉野の杉山に沁入るやうだといふので、これも実際あそこに行って見れば虚偽でないことが分かる。」(「作歌40年」)

 非常にそっけない自註。吉野は歌枕でもあり、殊に吉野の桜は数えきれないほど詠まれている。短歌が和歌と言われた時代、西行は桜の歌を好んで詠んだ。

・ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃・(西行「山家集」)

「山家集」には「桜の花の歌」が約140首あるが、そのうち「吉野」の地名がはいっているのは20数首ある。つまり「桜」「吉野」の組み合わせはさんざん詠まれているのだ。(平安中期以降「花」と和歌に詠まれていれば「桜」のことだった。奈良時代の和歌の花は「梅」。)

 佐藤佐太郎の著作に「作歌案内」というものがある。その中に「作歌上の注意」という一章があって、失敗作の例として「平凡」「即き過ぎ」が挙げられている。見方が平凡で、作品のなかの二者の関係が近すぎていることを言う。それほど「桜」と「吉野」は関係が深い。おそらく現代歌人に「吉野」「桜」を詠み込めといえば困るにちがいない。

 だから冒頭の茂吉の作品は、歌枕の吉野で桜ではなく、杉に着目したところに価値がある。

 もう一つ。「吉野の山」の語。これもかなり言い古された表現である。それを中和しているのが、「がに」である。意味は「ごとし」と同じ。だから「沁入るごと」ともいえる。「がに」は濁音があって語感が悪い。だがこの場合は、甘く流れてしまいがちな「吉野の山」を「がに」のインパクトと、和歌では使われなかった直喩が全体を引き締めている。茂吉はこのあたりのことをかなり工夫したに違いない。


 なお次のような作品も同時に詠まれているが、「桜」「散る」が「付きすぎ」の感があるが、「若葉」との組み合わせが、「発見」と言えよう。「暁紅」に吉野の歌は7首あるが、なかに桜を詠んだのはこの一首だけである。 

・もえぎたつ若葉となりて雲のごと散りのこりたる山桜ばな・

 吉野も山だが、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」では紹介されていない。東北の蔵王山や出羽三山とは、同じ山でも性格が違うからだろう。何といっても「吉野」は歌枕である。





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