・陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ・
「白桃」所収。1934年(昭和9年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」180ページ。
この歌が難解歌としてとり上げられたのは、10年ほど前(2000年頃)の短歌総合誌だった。言葉に難解なものはない。意見がわかれるのは結句の「雲の中に立つ」のは蔵王山か作者か、ということだった。どういう意見が交わされていたかは忘れてしまったが、「蔵王山が立つ」「作者が立つ」と二つの意見があったと記憶している。
僕は「作者」が立っていると読むのが順当だと思う。この歌について調べてみて、議論が分かれた理由がおおよそわかった。この歌は歌碑建立のために作られた歌という知識が邪魔をして、歌意が「とれなく」なってしまったのだ。
作者は作歌のときに頂上にいない、だから「作者が立つ」というのは、「客観写生」としてはいおかしい、とこうなってしまうのだ。
だが、蔵王山には「聳えたまふ」という述語があるから、「立つ」の主体は「作者」または「登山者」ということだ。蔵王山に登って行くと、山頂を覆う雲の中に「われ」が立っているという意味としか考えられない。
この場合、作者が山を実際に登っているかどうかは関係ない。斎藤茂吉の「写生」はそうしたものだ。「その場で詠まねばならぬということはない。その場で詠んでも、時間が経ってから詠んでも構わないのだ」と与謝野晶子に答えているし、仮にいったことがなくても詠める。所謂フィクッションだが、茂吉はそういう詠い方をする。
このブログの記事で何度か書いたが、茂吉の生家は決して山奥ではないのに「山あひ」としばしば表現される。その方が詩としての効果があがるからだ。こう言う詠風は「アララギ」では禁じ手だが、茂吉は文学性を優先したのだ。以前も書いたが、茂吉の写生は「客観写生」ではない。この点が土屋文明の写生論との違いだ。土屋文明はフィクション=創作を許容しない。
茂吉のこの詠風を継いだのが佐藤佐太郎。「写生・写実だからと言って、何も犬に蠅がまつわるように、事実にこだわる必要はない」とまで言う。これを佐太郎は「詩的真実」と呼んだ。これは象徴詩で使われる表現法だが、全くの空想でななく事実にもとづいたフィクッションである。
この歌について佐藤佐太郎はこう述べる。
「蔵王山は古えは山岳信仰の対象の山で、出羽三山に次ぐ東北の霊山である。その麓の村に生まれた作者は少年の頃から」おそらく二度か三度登っている。その経験を現在にひきつけて、奥羽を太平洋側と日本海側と二つに分けるように聳えている蔵王山に登って、いまその雲の中に立っているといったのである。下句をただ単純に< 雲の中に立つ >といっただけの内容だが、< 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ >という上句が蒼古として大きい。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)
さらに岡井隆はこう言う。
「山は< 聳えたまふ >と敬語表現になっています。蔵王山は神様なのです。その中へ、生前にいわば自分自身を埋めたのだとも言えます。これは歌碑であると同時に、生前につくった、茂吉のもうひとつの墓碑銘だというふうに、私は思います。こういう形で、いわば山と合体しようとしている。おそらくこれが茂吉の山の歌の決定版だと思いますが、次に挙げる二首も、茂吉と山の関係を考えるうえで欠かせません。(「のぼり路」より二首抄出、そのうえでナショナリズムと茂吉の一体化を指摘する)
なお茂吉自身は、1939年(昭和14年)7月8日に歌碑を初めて見ている。同行者結城哀草果ほか4名。写真を撮り、写真に俳句の走り書きをしている。
「汗うきて草履はきたるすがた哉(かな) 茂吉」 (新潮日本文学アルバム「斎藤茂吉」)
話をもとに戻すが、斎藤茂吉の写生論の特色を考えれば、「難解歌」の範疇にははいらないだろう。