「星座かまくら歌会」2017年2月 於)ホテルモントレ横浜
「星座かまくら歌会」としては初めて横浜で開催。これも初めてだが新年会もかねて行った。尾崎左永子主筆は体調の関係で欠席。「星座」「星座α」の選者3人がそれぞれ講評をしたが意見の違いがあった。これは無理もない。「星座」「星座α」の選者は「個性の違う選者を集めた」と尾崎主筆がいったことがある。
だから結論などは出なくてよいと思う。現代詩の作品批評会には添削も結論もない。自由に批評しておわり。結論は作者が出すのだ。意見の相違があるといっても、水と油ではない。問題の多い作品には批判が集中する。それをどう受け止めるかは作者の問題だ。
尾崎主筆の講評にしても「これは私の感じ方だから参考にして」と言う場合もある。これが本来的な「作品批評会」だと思う。尾崎主筆を軽んじているわけではない。選者それぞれが尾崎主筆から様々なことを学んでいる。しかし尾崎主筆と全く同じではない。当然のことだ。そしてこれは対立でもない。
説明的な作品にはそれを指摘する発言が飛び出す。言いすぎのところにはそれを指摘する発言が飛び出す。見解が異なっても指摘する箇所は同じことがおおい。基本線で一致しているからだ。
また参加者の解釈が様々になりのは表現に問題があるからだ。「分からないところがあるのが良い短歌だ」と言う人は誰もいない。
現代詩の詩人からみれば「先生から直してもらう」というのは奇異に見えるだろう。第一歌集を読むのに戸惑うことがあるのは「この作品は添削を受けているかどうか」の判断がつかないからだ。知り合いから聞いた話。
「この第一歌集は素晴らしいですね。」「いやこれは俺の歌集ではない。000の歌集だ」(000は選者の名前)
そして間もなくその人はその短歌結社をやめたそうだ。選者によっては改作に近い添削をする場合がある。僕も一度経験がある。添削をたのんでいないのに改作に近い添削をされ、「これは誰の作品か」と感じたことがあった。佐太郎は言う。「添削は最小限度にしろ」「星座α」の選者を尾崎主筆から託されたときに佐太郎自筆の「選歌注意」という文書をもらった。コピーだが常に目につくところに張ってある。
作者の意図を十分に汲むこと。作者の判断にまかせるところは任せること。こういう心がけが必要だといつも感じている。