・ひさかたの乳色なせる大き輪の中にかがやく秋の夜の月・
「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。
語註から。
「ひさかたの」(=天・あま、空、月、昼、光などにかかる枕詞。都、鏡などにかかる場合もある。)
茂吉の自註。
「月光の連作であった。(=6首)・・・月の大きな暈をばかういふ具合にあらはした。『乳いろなせる』あたりも印象的に言って見た。(この連作の)月の歌は、従来の歌人の月の歌から一歩でたやうに思ってゐたが、今のところ未ださういふ気がしてゐる、もう10年経てば或いは考が変るかも知れないが。」(「作歌40年」)
自信家の茂吉としては珍しく弱音を吐いている。満月がひどく明るいと月のまわりに「大き輪」が出来る。スーパームーンというそうだが、まれな現象である。
このまれな現象に目をつけたのは作者の発見であり、確かに従来の月の歌にはなかった。その意味では新しい。だが佐太郎には次の作品がある。
・潮いぶきたつにかあらん静かなる夜半にて月をめぐる虹の輪・(「群丘」)
まえに書いたが夜に虹はでない。佐太郎はそこを「虹の輪」と言いきった。詩としては、思い切って言った佐太郎の方がおもしろい。佐太郎の作品は1961年(昭和36年)作だから、茂吉の作品のあと25年で茂吉を上回る作品を作ったことになる。茂吉の「大き輪」と佐太郎の「虹の輪」。僕は佐太郎に軍配を挙げたい。
しかし茂吉の作品の下の句、「の」をたたみかけるような語法はやや常套句だが、勢いがある。佐太郎の作品には見られない特徴で、この辺に二人の作風の違いがあるのだろう。佐太郎は茂吉のこの作品を強く意識していたのは「茂吉秀歌・下」で分かる。
「この一句(=枕詞)が不即不離に一首全体にひびいていて、意味合いよりも声調に味わいがある。凡手の及ばない用法である。古いようで新しく、即物的のようで古雅で、一首に讃歎のいぶきがたちこめている。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)
少し誉めすぎかと思うが一首の特長は捉えられている。
ちなみに長沢一作は「甘美なうるおい」「身に沁みわたるひびき」という。(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)
この連作には次のような作品もある。
・露のたま高萱のうへに光るまでこよひの月の明るくもあるか・「暁紅」
・虫のこゑいたりわたれる野(ぬ)のうへに吾も来てをり天(あめ)のなかの月・「同」
・あらくさに露の白玉かがやきて月はやうやくうつろふらしも・「同」
いずれも叙景歌だが、岡井隆はこう言う。
「現代のわたしたちも、物を見て、それを歌のなかにうたい込めることによって、この世の生をたしかめているといっていいのかも知れません。」(岡井隆著「歌を創るこころ」)
