斎藤茂吉・佐藤佐太郎に学ぶということと、文体の真似をすることとを混同する人がいる。また茂吉や佐太郎が「どんな言葉を使ったか」と狭く考える人がいる。「(ある言葉の)用例を調べる」という場合多くは「(茂吉・佐太郎の作品に)前例にあるかどうか」だ。「用例を調べる」という言葉を初めて聞いたとき、「語源や国文学上の実作を調べるのか」と思ったものだが、どうも違うらしいと思いはじめたのは、3年ほど前だった。作品とその本の解説だけを並べる。というのもこれに近い。
この二つの方法は大事なことだ。「学ぶ」という語は「真似る」から来ているとも聞いた。だがそれは初歩の初歩。
肝心なのは、「どういう言葉をつかったか」ではなく、「なぜその言葉をつかったか」である。
「なぜその言葉を使ったか」を考えるのは実は難しい。自分が歌作に向き合ったときに生ずる疑問や迷いがある時に、「茂吉や佐太郎がなぜその言葉をつかったか」を考えられるようになる。
またそれは歌論や随筆に書き遺されている場合もある。だから「茂吉・佐太郎に学ぶ」という時には、次の三を同時並行させる必要がある。
すなわち、
・自分が「短歌を作る・詠む」ことに取り組む。
・茂吉・佐太郎の実作を読む。
・茂吉・佐太郎の歌論と随筆を読む。
この三つである。
歌論を身につけてから作る。茂吉・佐太郎の実作・歌論・随筆を読み終わってから「短歌を作る、読む」では遅いのだ。これについて佐太郎はこう言う。
「泳げるようになったら泳ぐという魚、飛べるようになったら飛ぶという鳥がもしいたら、その魚は永遠に泳げないだろうし、その鳥は永遠に飛べないだろう。」
何人かの哲学者も同じことを言っているし、ギリシャ神話にもそういう話がある。
特に重要なのは「詠むと読む」を並行させる事だ。どちらかに片寄っては、文字通りの「片肺飛行」になってしまう。
これを同時並行しているのが、このブログだ。ここで「読み」の掘り下げを、短歌史の中で位置づけながら行い、「運河」「星座」の両誌に投稿する。具体的に言えばこうなるのだ。
とはいえ、歌歴はやっと10年を少し超えたばかりだ。第二歌集「オリオンの剣」の奥書に僕の歌歴が書いてあるが、それを読んだ人に、
「あなたまだ短歌を始めて10年そこそこじゃあないの。末恐ろしい。」と言われたことがある。つい最近だが、こういう「根を詰めたこと」を10年やってきただけだ。この「だけだ」が難しいのかも知れない。
こうなったのは、短歌が好きだったことと、最初に時期に読んだ入門書の次のような一文に出会ったからだ。
「始めたら3年ムキになりなさい。そうすればあなたの作品はかなりサマになって来るでしょう。それを5年続ければあなたの作品は先輩の作品と比べて見劣りのしないものになるでしょう。」
そう言えば、選者に佳詠が初めてとりあげられたのが3年目。「運河賞」の選考委員に注目されはじめたのが5年目だった。また結社の枠にとらわれず、岡井隆や塚本邦雄の著作を読み込んだのも大きい。
では茂吉や佐太郎に学びながらどう「個性」を出すか。これには「価値観」「資質」「体験」が関係するのだが、また別の記事にしたいと思う。