岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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齊藤茂吉の「難解歌」:めん鶏の歌

2009年12月21日 00時00分01秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・めん鶏ら砂あび居たれひっそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり・

 不思議かつ難解な歌である。茂吉の「作歌40年」の自註は大変な長文である。「めん鶏」と「剃刀研人(かみそりとぎ)」がなぜ結びつくのか。その日の情景をそのまま詠んだという趣で茂吉は書いているが、醸し出す印象が何とも特異である。異様と言ってもよい。とにかく不気味だ。

 以前別の記事のなかで、「たたかひは上海におこり・・・」の一首と同じ日に詠まれたことを指摘しその関連性を述べた。上海で起こった「戦争=死」の連想を見出したのであるが、一首独立したものとして読んでもやはり印象は「死を連想させるあやしいアンニュイ」である。

 理屈で考えようにも無理である。なぜ「めん鶏」と「剃刀研人」なのか。この結びつきを塚本邦雄は「茂吉の力技」という。佐太郎は「倦怠感」という。「運河の会」の長沢代表は「一見しずかではあるが、凄まじい緊張」(「斎藤茂吉の秀歌」)という。様々な読み方がある。ということは「難解」ということである。

 ただし、無意味に難解なのではなく、読み手によって結ぶ印象が異なるという意味で難解なのである。僕は現代詩の「後期象徴派」といわれる吉田一穂や、「シュールリアリズム・西洋的教養」などと呼ばれる西脇順三郎との接点、距離の近さを感じる。

 「写生・写実」というと、散文の「写実主義」「リアリズム」との関連を連想する人が多いが、こちらの方との距離の方が「象徴派」「シュールリアリズム」との距離より遠いという印象を僕は拭いきれない。






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