斎藤茂吉に次の作品がある。
・いらだたしもよ朝の電車に乗りあへるひとのことごと罪なきごとし・「あらたま」
朝のラッシュアワーの歌である。「いらだたしもよ」と初句7音は、言葉そのものの意味からいっても、破調の具合からいっても、混雑にいらだっているさまが、ありありと浮かぶ。茂吉の短歌の基調は自己凝視だが、時に他者との関係を詠う。
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僕にもそういう作品がある。
・時をえて説をかえたる人ありぬシロツメクサの花は白きに・(「運河」340号)
自分の説をかえる場合はありうる。悪いことではない。しかし、そのことによって何か虚しく思える時もある。そういう思いをした人は珍しくないだろう。
説をかえるのは、時に賢い選択であったりする。だが説を変えない頑固者が悲しい思いをするのは何ともあわれだ。
ん?中島みゆきの歌にもあったか。
「世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが 悲しい思いをする 変わらないものを 何かに例えて そのたび崩れちゃ そいつのせいにする」
・偶像にすがる者らは誰々と咎めし人は今もの言わず・(歌集未収録)
人は時として偶像にすがる。尊敬していた人がとんだ偶像崇拝者だったりする。逆に自分自身がとんだ偶像崇拝者であることに気づいて、愕然とする場合もある。
説をかえるのと同様そういうことは胸のおくにしまう。かえた人自身もそれをはたから見ていた人もである。(たまには「変節者」とののしる人があるかも知れないが、「説」をかえるのと、「節」を「かえる」のとは違う。「節」は「曲げる」だ。)
願わくは、「説」はかえても、「節」は曲げない人間でありたいものだ。
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念のために言っておくが、これらの歌は特定の人間を指したものではない。そういう意味では「写実派」らしくないが、現代の人間の一断面を切り取ったものとして受けとって頂きたい。政治の世界のことを考えてもらってもいい。実際僕自身が「沈黙する偶像崇拝者」だったのかも知れない。
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そういえば斎藤茂吉と岡井隆に次のような作品がある。
・偶像の黄昏(くわうこん)などといふ語(こと)も今ぞかなしくおもほゆるかも・(斎藤茂吉「ともしび」)
「偶像のたそがれ」というのはゲーテの言葉で、「古いものは滅びて行く」という意味。それを知った茂吉が詠嘆をしている。「ともしび」は青山脳病院が全焼して茂吉が苦しんだ時期の歌集だ。この「古いもの」とは、全焼した病院のことかもしれないし、「断念した研究者への道」を指すのかも知れない。
・説を替へまた説をかふたのしさのかぎりも知らに冬に入りゆく。(岡井隆「朝狩」)
岡井隆はたびたび文体を変える。そのことだろうか、ほかに思い当たることもいくつかあるが。これが正に「説」を変えても「節」は変えないということだろうか。
岡井の歌集「Xー述懐する私」は「アララギ回帰」と小高賢に言われたそうだが、「アララギ」は「喩」に関しては、直喩どまり。暗喩は用いない。暗喩は人に依ってとりかたが違って来るからだ。
だが、
万葉の歌人たちは「涙」「悲しみ」の暗喩として「露」や「滴」という語を用いた。こういう語法は「心の形」すなわち「象徴」たりうる。
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