・むら鳥はいまだ鳴かねばあかあかと丹波の方に月かたぶきぬ・
「白桃」所収。1933年(昭和8年)作。「比叡山上の歌」の表題がある。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」174ページ。
茂吉の自註。
「8月2日から6日に至る5日間比叡山上でアララギ安居会を開いた時の雑歌(ぞうか)である。・・・< 鳴かねば >は< 鳴かぬに >として解釈していい。まだ群鳥の鳴かぬ暁方に、光がうすれずに丹波方面に月が傾いて行った光景である。< 月かたぶきぬ >の句は人麻呂の歌にもあるがそれを踏襲したものである。」(「作歌四十年」)
「(比叡山上の歌40首など)天然を詠んだものに上の如きものがあって、前年のものに比していくらか変化があるかと思ふが、進歩といふ方面から謂へば、やはりおぼつかないのであらうか。」(「白桃・後記」)と言いつつ、次の三首を挙げている。
・やうやくによはいはふけて比叡の山の一暁(ひとあかつき)を惜しみあるきつ・
・まどかなる月はいでつつ空ひくく近江のうみに光うつろふ・
・みづうみを見おろす山はあかつきのいまだ中空に月かがやきぬ・
茂吉は「いくらか変化があるかと」と言うが、詠みぶりとしては前歌集「石泉」と比べてかなり古風である。(茂吉の山の歌については岡井隆著「茂吉の短歌を読む」に詳しい。また西郷信綱が著書「斎藤茂吉」で言うように、茂吉が「みちのくの農の子」であることと無関係ではあるまい。)
それはこの時期に「柿本人麻呂」を執筆していたことと、無関係ではないと僕は思う。その時期の読書内容によって作風が変わることはありうる。
だからこそ茂吉自身も「進歩」とは言っていない。歌集をだすたびに進歩するというように、直線的右肩上がりに歌境に変化があるとは限らない。茂吉も人の子なのだ。
ただ作歌をあきらめなかったことと、遠近感の表現力には、注目してよかろうと思う。