「< 写生 >の実行に心を潜め、< 写生 >を強調して説く自分の如きものといへども、(文学芸術を論ずるのに空想のことを除去しては論が成り立たないという)この結論をば否定し得ぬのである。従って、詩は空想の芸術なりといふ明確なる語をも否定せぬといふことになる。」(「短歌初学門」)・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」345ページ。
芸術一般の話として「読者の連想を広げる」あるいは「かきたてる」ものが優れた芸術だということと、その時点での茂吉自身の作歌の方向性を述べているものと僕は理解している。
「読者の連想を広げる」「否が応でも広げせしめる」という点では、塚本邦雄の作品を抜きに考えられない。多くは暗喩が用いられ、難解だといわれる。その暗喩には「寓意」が含まれる。歌の基本的考え方は、反権力・反権威である。マルキスト(=マルクス主義者)を自称する岡井隆のも共通しているが。
その難解歌のひとつに次の作品が挙げられる。
・五月祭(メーデー)の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる・
1956年(昭和31年)刊。「装飾楽句」。
五月祭はスコットランドの伝統の祭りで初夏に豊作を願う。前夜祭は盛大に行われ、シェークスピアの< 真夏の夜の夢 >はこの前夜祭のことだとも言われる。秋の収穫祭が「収穫後」なのに対し、五月祭は「種蒔き前」の祭りと言えるだろう。
塚本作品では「五月祭」に「メーデー」というルビがふってある。大学の学園祭ではない。
暗喩が使われず、意味が比較的通り易い作品だが、「病むわれ」の読みが分かれる。(ある雑誌では、この部分が「難解」と言われていた。)坂井修一「秀歌鑑賞・塚本邦雄」では、塚本本人の病という読みである。実際に塚本邦雄は、1954年(昭和29年)より1956年(昭和31年)まで、肺結核で休職しているというのがその論拠だ。
しかし前衛短歌、とりわけ塚本の表現法は「私性」を直接詠うことはなく、ここは「精神的距離感」だと僕は思う。つまり塚本が実際に病んでいようがいまいが、「病むわれ」と詠んだだろうと僕は推測する。
「五月祭(メーデー)」のデモや集会で汗をかいている青年と、孤独な作者自身の精神的距離感。これが一首の「主題」だろう。
この作品が詠まれた時期、1955年(昭和30年)前後は大きな政治的事件があった。ビキニ水爆被災事件・国会乱闘事件、自衛隊法成立、砂川事件、社会党統一、保守合同、フランスに代わりアメリカがベトナム戦争に介入、ハンガリー動乱など。メーデーのデモや集会も「労働者の祭典」というより、政治闘争の意味合いがかなり強かった。
1952年(昭和27年)には「メーデー事件」という戦前並の弾圧事件もあった。(機動隊がデモ隊を皇居前広場に誘導し、封鎖した上で四方からデモ隊に襲いかかり、多数の死傷者を出した。)
そういう「激しい政治闘争」との「精神的距離感」が塚本自身のなかにあったのだろう。
塚本の「反権威」の「権威」のなかに、こうした「政治運動」もはいっていた。戦前から続く左翼運動。塚本邦雄にとってはスターリンを頂点とする一種の権威だったと言っていいだろう。
「日本の前衛短歌運動は、政治的前衛ではなかった」と言われるのは、こういうことを言うのだろう。