二つの時間
どうやらこの世には二つの時間があるようだ。かなり忙しい時間を過ごし、はっと吾に返ってみると短歌の覚書(日頃ふと心に浮かんだものを書きとめるノート)の空白が目立つのである。
考えてみれば、こちらは生身の人間。仕事の事、家庭内の出来事、団地の自治会の事など現実の生活に関わることが頭をもたげて来る。そんな時に歌は詠めない。日常的なことを三十一音の定型にあてはめても詩とは言えまい。
「星座の会」の尾崎左永子主筆は「詩への昇華」というkとを、或る歌集の跋文に書いていた。昇華とは個体から液体、気体から個体への状態変化を言う。普通なら氷(個体)→水(液体)→水蒸気(気体)と変化するところだが、途中の液体という過程を経ないで個体!気体と直接変化するものである。当然、時間もエネルギーも要する。変化も劇的だ。
詩への昇華という場合、現実の世界から一旦離れ、自らを客観視し、再構成するこつかと思うが、それには五感を研ぎ澄まし、感じたことを5・7・5・7・7の定型に仕上げていく「特別な時間」が必要らしい。
或る女性歌人は子供が寝静まった頃に歌を詠むそうだし、藤原定家は「四畳半の部屋で窓を閉め切り、一人で時をすごす時に良い歌が生まれる」という趣旨のことを言っている。定家が代表する「新古今和歌集」の時代は、和歌が技巧に走り、類型化し、衰退してゆく時代だったとよく言われるが、正岡子規も病室から一歩も出られない状態で、秀歌、秀句を残している。
「日常的な時間」と「それを昇華する時間」と。案外こんな所に王朝和歌と現代短歌との接点があるのかも知れない
上記の短文は、十年以上前ものだが、短歌に没頭していたころの感情が素直に出ていて、捨てがたいものがある。