・わが心しづまりがたし萬有(あめつち)にわれ迫(せ)むるもの何かありつつ・
「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」192ページ。
茂吉の自註から。
「何か迫り来る、饜迫するやうなものが、萬有(あめつち)にあって自分に働き掛けてゐるので、平安の心に安住することが出来ない。これは大和言葉で一首を纏めたところに特色がある。」(「作歌40年」)
この自註はいささか茂吉が自作を勘違いしているように僕は思う。この一首の特色は「心理詠」だということだ。具体的なものが何も詠み込まれていない。これが茂吉の「写生」で、即物的な土屋文明の「写生」との違いでもある。
何かが迫る。その理由はわからぬが、息苦しいほどの「何か」を感じたのだろう。「心象詠」といった軽いものではない切迫感がある。茂吉は短歌を「対詠歌」と「独詠歌」に分類したが、これなど「独詠歌」の最たるのので、茂吉は1935年(昭和10年)に多くの「独詠歌」を残している。
また「萬有=あめつち=天地=森羅万象」から「働き掛けてゐる」(ようなもの、その感覚)が「汎神論的」な特色を示している。大和言葉でまとめたとことさら強調するのは、時局の為だろうか。「作歌40年」は戦時下の発表を考えて1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)にかけて執筆されたものだ。
具体を詠み込んでいないせいか、佐藤佐太郎「茂吉秀歌・上」、長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」では採りあげられていない。「写実派」はよく「ものを見る目」という。物に即して短歌を詠むのが「写実」の基本だ。佐藤佐太郎・長沢一作の著作は専門書ではないので、省かれたのだろう。
ところが塚本邦雄がこの作品を採りあげている。
「昭和10年の、副表題の言葉(=「晩秋より晩歳」:注・岩田)通りの二月余りに、断続的に現はれる独白は、低く重く、時には卑屈でさへある。救ひを求める心の声、野獣にたぐへる老年の衰へ、落葉や黄葉によせて、心の乱れを鎮めようとする嘆き、歳晩の吐息、・・・(が)作者の本領を伝へてをり、かつまたその次に並べた『万有・あめつち』の荘厳痛切な、呻吟に似た一首の底光を見せる。それらの中に例の『清らなるをとめと居れば悲しかりけり青年(おとこ)のごとくわれは息づく』が潜んでゐる。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)
岡井隆は「目に見えるものを『写す』ことが、眼に見えないものを『写す』ことにつながる」(岡井隆著「短歌の世界」)というが、こういった心理詠もまた、茂吉の「写生」なのだ。