・にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華(あずまいちげ)の花も閉ざしぬ・
「山下水」所収。1946年(昭和21年)6月号「アララギ」に発表。
先ずは語註。
「東一華」;植物名。アズマイチゲ。落葉樹林内やその縁、草地などに生える多年草。花は白で裏はうす紫色や紅紫色を帯びる。イチリンソウ属で、サンリンソウ・ヒメイチゲ・キクザキイチゲ・ユキワリイチゲなどの仲間。
次に歌意。
「人参の種は明日蒔けばいい、帰ろうか。アズマイチゲの花も閉じたことだし。」
この作品。土屋文明の終戦直後の代表作といってもいい。年譜によれば、土屋文明の自宅が1945年(昭和20年)空襲により自宅が焼失したあと、その年の6月群馬県吾妻郡に疎開。これより1951年(昭和26年)11月まで疎開生活を送った。
その間たびたび上京し、また北陸、九州、中国を旅行。各地での歌会に出席した。また「アララギ」の復刊・再建にも力を注いだ。「アララギ」は五味保義や佐藤佐太郎らにより復刊の努力がなされたが、実質的には群馬の土屋文明から指令が出ていた。岡井隆は土屋文明選歌欄から出発し、同じ土屋文明門下の近藤芳美と「未来」を創刊。岡井隆著「僕の交友録」では「僕にとって『先生』と呼べるのは土屋文明」という。
佐藤佐太郎が斎藤茂吉を訪ね上京を促すと「もはや土屋幕府ができているではないか」と言ったとされる。(今西幹一・長沢一作著「佐藤佐太郎」)土屋文明の弟子筋中心の体制となり、「『アララギ』のなかの大同団結がなくなった時期」(岡井隆著「僕の戦後短歌史」)でもある。
だがこの時期土屋文明は容易に居を東京に移さなかった。農耕生活を送りながら、大著「万葉集私註」執筆に取り組んだ。その折の農耕生活を詠った一連の代表作0が冒頭の作品である。ほかに、
・甘草もいまだ飽かぬに挙(こぞ)り立つ浅葱(あさつき)の萌えいづれを食はむ・
・雪消えしばかりの土のべとべとと手につく親し浅葱を掘る・
などの作品がある。いかにも牧歌的だ。
しかし、この時期「第二芸術論」の問題があり、短歌界は見直しを迫られていた。近藤芳美の「新しき短歌の規定」が1947年(昭和22年)、佐藤佐太郎の「純粋短歌論」執筆開始が1948年(昭和23年)、宮柊二の「孤独派宣言」が1949年(昭和23年)。これらはみな戦後短歌の「再建宣言」いわば「マニフェスト」だ。
だから土屋文明も、戦後短歌の方向性、「アララギ」再建、などについて考える日々だったことだろう。「晴耕雨読」ならぬ「農耕熟慮」とでも言おうか。「万葉集私註」も短歌の原点である万葉集に立ちかえる意味があったのだろう。困難にであったら原点に戻れ、である。この姿勢は岡井隆に受け継がれている。(岡井隆著「短歌の世界」・・・「迷ったときに短歌の原点『万葉集』に還ること」:作歌の基本十か条を考える)
その一方で、ここに紹介した作品からは大きな息使いのようなものが感じられる。大きく深呼吸しながら、土屋文明は考えを煮詰めていったのだろう。その結果が「生活即短歌」の論である。ここに至って「斎藤茂吉の写生論」とは違った「写生論」に行きつく。茂吉はこのころから、体の衰弱が目立ちはじめる。(1946年夏)僕がこの一首を「茂吉以降」と呼ぶのは、このためである。
その意味で、この作品は土屋文明の代表作であるばかりでなく、戦後短歌史上の記念碑的作品とも言えよう。