原子力の平和利用ができるかどうかは長らく賛否両論があった。「鉄腕アトム」「サイボーグ009」などは原子力エネルギーで稼働するし、核兵器には反対でも原子力エネルギーの平和利用については見解が分かれていた。
原子力エネルギーの平和利用を開始したのには複雑な経緯がある。日本で原子力エネルギーの平和利用の研究が始まったときに深くかかわったのは、中曽根康弘、正力松太郎、湯川秀樹の三人がいる。
このときはビキニ環礁での第五福竜丸事件があって、アメリカの核兵器に日本国内から批判が高まっていた。そこで「原子力エネルギーの平和利用」というキャンペーンが始まった。(「朝日新聞」)。
中曽根、正力の二人はそれを引き受けた形だが、科学者たちは反対していた。日本科学者会議も反対していた。しかしそれを見切り発車する形で「原子力委員会」が立ち上げられて国内での原子力研究が開始された。これを湯川は海外で聞いた。委員会立ち上げの数日前だ。
「原子力エネルギーの軍事転用だけは何とでも防ぎたい」こう考えた湯川は急遽帰国、「原子力開発三原則」を考えた。「自主、民主、公開」の三原則だ。これをたずさえて湯川は委員会のメンバーとなる。しかし「三原則」は取り入れられず、経済界、政界主導で原子力開発はすすんでいった。湯川は委員を辞任する。
科学者たちは独自に原子力研究を開始する。国による開発は始まった。ブレーキをかけるのも原子炉を廃炉にするにも基礎研究が欠かせない。これに反対する科学者やジャーナリストもいた。賛成か反対かだけでなく複雑な様相になってきた。
20世紀の終わりに各地で「非核自治体宣言」が制定された。どこでも議論となったのは「原子力の平和利用」をめぐる問題だった。「非核自治体宣言」に「脱原発」ははいっていないだろう。全国の例を調べた訳ではないが僕の知っている限り「脱原発」は入っていない。
そこで「新しい非核自治体宣言」が提唱されるようになった。僕が賛同したのは「非核の政府を求める京都の会」の賛同メッセージだ。
科学者会議京都支部の研究者、被爆者団体の役員、憲法学者、国際政治学者の畑田重夫、作曲家の池辺晋一郎、作家、ジャーナリストの鳥越俊太郎、など各界の人がなをつらねている。