・ゼッケンの紐結びつつ永田町一番出口を急ぎ出(いで)たり
(2016年刊『聲の力』所収)
文学では政治とのかかわりが議論の的となる。短歌でいえば『いま、社会詠は』という著作があったし、『短歌その騒がしき詩形』(岡井隆著)でも叙述された。僕が短歌を始めたばかりの頃『短歌研究』に連載されていたものだ。僕の記憶が正しければ「戦争中の時局便乗歌も現代の社会詠も同じ問題を含んでいる。ベクトルが違うだけで、文学がイデオロギーに従属している。」という趣旨のことが書いてあった。それは違うと思い、このブログにも記事を書いた。
「詩を書くのは社会への異議申し立てのようなところがある」と言ったのは詩人の高橋順子だが、短歌にもそういうジャンルがあってもいいし、社会詠が成立する条件がここにあると思う。戦後短歌でいえば近藤芳美。だが近藤芳美の作品はプロパガンダと言われる場合がある。『静かなる意思』では中国人民解放軍、北朝鮮へのシンパシーを感じさせる作品がある。
今となっては朝鮮戦争は金日成がスターリンの承認のもとに始めた戦争だということが資料で立証されている。一時期だけの判断では歴史の試練に耐えられない作品になる。機会詠の怖さはここにある。
『聲の力』では『東京新聞』が2015年安保と呼んだ「戦争法反対運動」の作品を収録した。だが「戦争法、憲法九条」という語句を使用しなかった。佐藤佐太郎の表現の限定を応用したのだ。表現を限定すれば普遍性のある作品ができる。「戦争法」「憲法九条」という語句を使えば30年もすれば意味が通じなくなるかも知れない。
だから時々の政治課題を直接には読み込まない。「TPP」「消費税」も同様だ。この作品だったら永田町に国会議事堂が存在する限り理解できるだろう。
ネット上の「詩客」では「政治と文学という問題を根底から瓦解させた。」と詩人から評された。僕自身が主体となって作品を作っている。新聞の見出しを見て作っているのではない。
国会は国権の最高機関だ。永田町には議員会館もある。地下鉄永田町駅一番口を出て右に曲がれば議員会館。直進すれば国会図書館をへて憲政記念館、議事堂正門にたどり着く。
ここでは毎日何らかの行動が行われている。国会議員への陳情や要請、国会への抗議行動、集会など。「議員会館に遊びに来てください」という国会議員もいる。
主権者の国民がもっと足繁く行ってもいいのではないかと思う。議員会館へは誰でもはいれる。許可があれば国会議員に直接会って意見も言える。国会周辺にもっと多くの人が通えば選挙だけでなく政治に市民の声が届くのではないかと思う。
「永田町一番出口」。是非覚えていたいと思う。