・旅とほく来つつおもほゆ人の生くるたづきはなべて苦しくもあるか・
「石泉」所収。1932年(昭和7年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」166ページ。
先ずは読み。「たづき」。漢字では「方便」と書く。意味は様子、ありさま、見当。古今集に用例がみられる。「をちこちのたづきも知らぬ・・・」=「どこがどこやら見当もつかない・・・」。
だから「生くるたづき」とは「生きる有様(ありよう)」という意味になる。旅はこの年の8月に弟・四郎兵衛とともに北海道に次兄・富太郎を訪ね、北海道各地からサハリン(樺太)まで歴遊したものである。翌年には妻の「ダンスホール事件」があり、別居生活にはいるから、そういう夫婦の気持ちのすれ違いも或いはあったのかも知れない。岡井隆著「茂吉の短歌を読む」の資料一「斎藤茂吉の一生の概観」にもこの旅行(8月10日-9月11日)と日程まで記入されているから、茂吉の生涯にとって、ひとつのエポックだったのだろう。
その旅のいきさつの詳細は、「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで・百首」に詳しい。(同書315ページ。)北海道で医業を開業する次兄・守谷富太郎を訪ねるのが目的だったが、戦後になってこの次兄が死亡した時に、斎藤茂吉は左側不全麻痺症状を呈するほどだった。肉親に対する情が濃かったのがわかる。
だから夫人とのすれ違いは茂吉には苦痛だったろう。「赤光」では「をさな妻」の連作をなしたほどであった茂吉である。ただ夫人との年齢差(結婚時茂吉33歳、輝子夫人19歳)はいかんともしがたかったのだろう。
さて旅だが、天塩・稚内、サハリン、名寄、層雲峡、空知川から石狩川、釧路、阿寒湖、根室、ふたたび石狩川、支笏湖、苫小牧、白老、登別、函館郊外・湯の川温泉に及び、帰路十和田湖を経て、8月14日に出発して9月11日に帰京するまでの約一か月の大旅行だった。
・うつせみのはらから三人(みたり)ここに会ひて涙のいづるごとき話す・
・過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すぢを語りあふぞさびしき・
などの作品もこの期間に詠んでいるから、まさに「生くる」有様の「苦し」さがこみ上げたこともあっただろう。
旅と言えば郷愁をさそう。しかし遠くにあればこそ現実の生活の苦しみなどを一層感じる場面もありうる。いわば自分の生きの有様(ありよう)を客観的に見られる訳でもある。「自己凝視」。この傾向の作品は伊藤左千夫にはなく、茂吉の開拓した分野だが、のちに佐太郎に引き継がれていく。