・現(うつつ)なるこころのながれ惜しみつつかすかに生きてありと思はん・
「群丘」所収。1959年(昭和34年)作。岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」120ページ。
佐太郎による自註がある。
「< 現なるこころのながれ >は、たとえば感情である。感情を大切なものとして惜しむのは、さしあたり歌人などがそれである。はかないといえばはかない。雲の影のように心をよぎるものに意味をみとめるのが歌人の態度である。歌人としての自身の生の意味をかえりみ、自身の生の意味をみずからみとめようとして、あるときこの歌を作ったのであった。実世間においては< かすか >ないとなみであるが、みずから恃むところがないわけでもない。しかし、自身のことを< かすかに生きて >と言ったので、この下句にはいやみがない。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
「< 現なるこころのながれ >は現実にある感情の起伏である。はかないといえばはかないものを< 惜しむ >のは、さしあたり< 歌つくり >などがそれである。< 文章は小枝 >と杜甫も言っているが当事者にはかういう感想もあり得る。」(「及辰園百首自註」)
これを「写実歌」とするには異論もあろう。とくに「写実=リアリズム」と見る人には。具体がないからである。「もの」がないのだから、「これが写生か」と見る人もいるだろう。
つまり表現内容が「概念的」なのだ。しかし島木赤彦は「歌道小見」のなかで、「概念歌」の一項を設けているし、斎藤茂吉も次のように言う。
「感情の自然流露を表はすことも亦自己の生を写すことになり、実相観入になり、写生になるのである。」(「短歌に於ける写生の説」)・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」135ページ。
「生を写す」「実相観入」という言い方は仏教的な雰囲気が漂うが、「生を写す」とは「感情を率直に表現する」ということ、「実相観入」は「ものの本質を捉える」という意味であると、茂吉自身が言うところである。
ところが「率直に」というのが案外難しい。佐太郎は「自然流露」を「響を長く」と受け取ったが、これには個人差がある。「声調は個々人それぞれ」であり、「同一人でもその時々によって違う」とは斎藤茂吉も佐藤佐太郎も異口同音に言う。
・偶像の黄昏(こうこん)などといふ語(こと)も今ぞかなしくおもほゆるかも・「ともしび」
・暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの・「つきかげ」
などの茂吉の作品(ともに岩波文庫「斎藤茂吉歌集」より)も「概念歌」の範疇にはいるといっていいだろう。
つまり斎藤茂吉と佐藤佐太郎の「写生・写実」は、所謂「客観写生」ではないのである。佐藤佐太郎の歌が「象徴的写実歌」(岡井隆)といわれる所以であり、「サンボリズム(象徴主義)」の塚本邦雄が、しばしば象徴派詩人の名を挙げて、茂吉の作品を鑑賞しているのも、その辺に理由があると思う。