近現代短歌の作品は読むようにしている。だが盲点となっていた作家がいた。木俣修である。北原白秋の弟子。白秋の弟子といえば宮柊二に目が奪われいた。だが作品も評論活動も大きな業績がある。アララギ系の「結社」で育てられた僕は、斉藤茂吉、土屋文明、佐藤佐太郎という作家にまず目がいく。
また木俣修は、おうふう社、本阿弥書店の「短歌シリーズ」にものっていない。各種のアンソロジーには作品が収録されているが断片的だ。今回、いただいて全体を読んだ。
ヒューマニズム、人間主義、現実主義、日常を人間味あふれ作品化していると、批評されることが多い。また評論活動でも『昭和短歌史』は名著だ。戦中の歌人の戦争責任に言及し、第二芸術論に対峙した。歌人が戦争協力をして時局便乗をしたところに第二芸術論が出現する背景となった。現代詩の吉野弘も「短歌の無思想性」と批判している。
だから第二芸術論に抗するには、時局便乗を批判し、短歌が人間性を表現できるのだと作品で立証する必要があった。それを作品、評論の両面ではたしたのが木俣修であると言える。
『昭和短歌史』は『昭和短歌の精神史』(三枝昂之著)で過去のものとされた観がある。「占領期の神話」に基づいて叙述されたと断定され、中堅の歌人からは「イデオロギーで歴史を断罪している」とされた。「イデオロギーで歴史を断罪」というのは「新しい教科書を作る会」の歴史教科書の発想だ。
短歌界の歴史修正主義ともいえる。だから木俣修の業績はもっと評価されていいと思う。「イデオロギー」とは人間の意識形態のこと。初めて使ったのはフランスの哲学者。1970年あたりから、「地方政治にイデオロギーは要らない」と言われ始め、思想的偏りをあらわすかのように言われるが、本来イデオロギーのない芸術などありえない。イデオロギーは広い意味での思想の同義語に近い。
木俣修のヒューマニズム。これは木俣の人生観、世界観からきている。評論も木俣の価値観で書かれている。だから評論を書く歌人は個人の価値観すなわちイデオロギーをもっていることになる。評論活動を活発に行っている歌人が「イデオロギー」を思想的な偏りのようにいうのは、大きな過誤だ。
そこで木俣修の作品。百首のうち特に心に残った作品をいくつかあげる。
・むかひつつ言葉ならざるくやしさのきはまるときに時計鳴りいづ
・かりそめに汝(な)が黒髪に触るるさへたそがれどきのこころをののく
・雪原の真日(まひ)のあかりに舞ひいでて白鷺の群かがやきにけり
写実派とは言葉遣いが違う。だがだからこそ読む意味がある。そう心がけなければ自分の作品も袋小路に陥るだろう。
本書は巻末に「木俣修の年譜」がある。これも資料価値がたかい。