社会詠と時事詠。
「運河の会」に入会したころ「時事詠は価値がない」と言われた。「地震があって箪笥を抑えながら短歌が詠めるか」とも言われた。「社会を素材にしたものは際物」という批評もあった。「時事詠は旬が決めて」という話も聞いた。「戦争を詠むんだったら短歌なんか詠んでいないで戦場へ行って活動しなさい」とも言われた。
しかし僕には一つの確信があった。「現代の社会や思想を盛り込むのは短歌には無理だという説がある。だがそれは正確ではない。現代の作家はそれを詠みこんでいる。難しいとは言えるができないことはない。」という一節が佐藤佐太郎の「純粋短歌」の中の一節にあったからだ。
だがことは容易ではなかった。「湾岸戦争」が始まった頃「運河」誌上に戦争をテーマにした作品が紹介されていた。翌月号には戦争をテーマにした作品が多く選ばれていた。だが作品を初めて紹介した歌人が「運河」を退会して、戦争や社会をテーマにした作品は影を潜めた。
「風になびく雑草はあわれだ」という作品を出詠したが、そういう傾向を念頭に置いた作品だった。「社会のことは短歌に表現できるはずだ。」こう確信した僕は一つの実験を始めた。
「社会詠」を匿名で商業誌に投稿するのだ。ただしペンネームで。「時事詠」というのはその時だけに通じる作品。「社会詠」はもっと普遍的なもの。こういう思いが捨てがたくあったからだ。
さしずめ「時事詠は旬が決めて」という説に対しては、より普遍的な「社会詠」を詠むことで回答を出そうと思った。
次回に詳しく論ずるが、「時事詠」とはその場限りのもの、「社会詠」は後世に残る普遍的なもの」という認識が僕の中にあった。(続く)