叙景と抒情、そして自己凝視
「短歌は抒情詩であり抒情詩は端的に言えば詩である。」
これは佐藤佐太郎の「純粋短歌論」の冒頭の一文。一方叙景歌というものがあります。けいを叙べる(のべる)という意味ですが、叙景歌のどこに抒情があるのでしょうか。作品をとりあげましょう。
(紫色で朧な半月の歌)
(太平洋の先のその先の歌)
(八ヶ峰颪が雪をまじへる歌)
(葉の影が敷石に円き光が風にうつろう歌)
年齢や生活環境、題材も異なる叙景歌を4首挙げました。それぞれの条件に応じ見えるもの、目にはいって来やすいものが詠まれています。的確な言葉遣いに注目したいもの。
見えたものを「写」しているのですが、それが同時に作者の心をも「写」す。塚本邦雄や岡井隆が茂吉や佐太郎の歌を鑑賞する時の視点ですが、的を得ているとおもいます。
(鈴なりの青いトマトと夏への予感の歌)
(一輪の椿を挿した底冷えの茶室に感じる炭音のぬくもりの歌)
目に見えるものと、作者の心情が組み合わされています。この場合、目に見えるものは作者の心情の象徴です。
(一日の過誤を捨てようとする歌)
(真空パックの米を開封する歌:「解けゆく心にも似て」という比喩を使った歌)
(ふるさとの訛りを心の裡に親しむ歌)
最後に心理詠を三首挙げました。自己凝視の作品と言えるでしょう。
(岩田亨)
「『星座α』第4号より」
(この作品批評は斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論と実作の現代に活かす試みである)
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