岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

2012年・この夏の総括:短歌

2012年08月31日 23時59分59秒 | 作歌日誌
この夏は、例年と違って様々な事があった。短歌の事も勿論だが、短歌以外でも様々な経験をした。

 「歌人であり思想家である方がもっといい」

 このように書き残しているのは斎藤茂吉だ。思想が無ければ短歌の実作は軽いものになってしまう、と僕はそう思っている。

 思想の中には「政治思想」も含まれているから、今の日本では原発の問題やエネルギー政策なども入るだろう。

 このブログにも度々書いてきたが、原発は未だ技術が完成していない。つまり未完成の技術で稼働していたのが原発なのである。この夏は原発、エネルギー政策について考えさせられることが多かった。

 短歌に関連したものでは、「星座」「星座α」にエッセイ二本と、「星座α」に作品批評を書いた。エッセイでは「文学には主題がある」ということを書いた。

 原発関連では節電の事を考えた。僕は原発は危険だと思っているので、脱原発に賛同している。ミクシィやツイッターで議論し、ブログとフェイスブックで意見を明らかにしきた。

 ミクシィ、ブログ、ツイッター、フェイスブックと四つをつかいながら思考を深めてきた。これは「機械音痴」「アナログ人間」の僕としては画期的な事だった。

 これらの事は例年には考えられない事で、新鮮な思考体験、読書による追体験だった。

 短歌は文学であり、文学には主題がある。思想の裏打ちのない短歌は「軽い言葉遊び」になってしまう。

 だからこの夏の思考体験と追体験は、僕の短歌の実作のあり方にも大きな影響を与えるだろう。

 短歌には色々な表現方法がある。だが僕は「雑巾を絞るように」情感が溢れ出し、心より叫びが溢れ来るのような短歌を詠みたいと思っている。

  「雑巾を絞るように情感が溢れだす」というのは、僕がまだ病気療養にはいる前に塾の教師をしている時の小学5年生の生徒が「万葉調」を上手く表現したものである。ここに斎藤茂吉や佐藤佐太郎にまなぶ僕の持つ必要性と必然性がある。(他の人に、これを強いるつもりはない。)

 こういう考え方は一見保守的に見えるものの、著名な短歌賞の受賞を狙って表現方法や文体を変えるなどとは少しも考えてはいない。斎藤茂吉も言うように「己れの体内を通過した言葉」で表現するのが最も大切だと思う。エッセイは、そういう趣旨のことを書いた。

 尚エッセイを書くに当たっては、霧が丘商店街の「ぷかぷか・カフェ」、若葉台商店街の「カフェ・若葉台十番館」に下書きから清書まで御世話になった。これも、この夏の初めての体験だった。御礼を申し上げたい。


 斎藤茂吉

・最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも・「白き山」

・最上川の流れのうへに浮かびゆけ行方なきわれのこころの貧困・「白き山」

・茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし。「つきかげ」


 佐藤佐太郎

・冬の日の眼に満つる海あるときは一つの波に海はかくるる・「開冬」

・冬ごもる蜂のごとくにある時は一塊の糖にすがらんとする・「開冬」

・杖つきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと何時人は言ふ・「星宿」




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