岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

(続)2012年この夏の総括:短歌

2012年09月08日 23時14分34秒 | 作歌日誌
この夏は様々な事が起こった。

 尖閣諸島、竹島。領土問題が顕在化した夏であった。北方領土もこれにはいる。

 又オリンピックの夏でもあった。メダルの獲得数を手に汗握って見ていた人も多かっただろう。

 勿論、節電の夏でもあった。原子力発電所の事がこれだけクローズアップされた夏も近年なかった。

 様々な事が起こったので当然、様々な事を考えさせられた。これらはブログの「身辺雑感」等に記事にしてきた。

 僕の本分の短歌についても様々考えさせられた。そして僕なりの答えを得た。

1、短歌は文学である。文学であるからは「主題」がある。主題なき文学などありはしない。主題は文学の必要条件である。

2、主題は文学の必要条件だが充分条件とは限らない。主題に加えて表現力が求められる。そこには「写生・写実」「象徴」「表現の限定」などが含まれる。(「写生と写実」の答えは「カテゴリー:茂吉と佐太郎の歌論」に記事にしてある)

3、「写生・写実」だけが短歌ではない。短歌の表現方法は多様でいい。だが主題は欠かせない。

4、「象徴」とは「心の形」「普遍的」なものを表す具象的な物である。

5、短歌は1500年の歴史と伝統とを持っている。現代短歌は「定型の現代詩」だが、それと一見矛盾する歴史と伝統が、口語・文語の混合文体を可能にする。(僕の場合では必然化ならしめる。)

6、短歌は「新かな」を使うべきだ。「旧かな」は読めない文字になりつつある。このままでは短歌を「読む人」がいなくなり、やがて短歌を「詠む人」もいなくなるだろう。(このことの詳細は「カテゴリー:新かな:旧かな」で記事にしてある。)

 これらの事は、この夏に考え始めたものではない。このブログを始めてから考え続けたことである。だが確信に近い結論を得たのは、この夏である。

 以上の事は、ブログ、ツイッター、ミクシィ、フェイスブックを通して考えてきたことでもある。

 この夏は僕の作歌活動の中でも忘れられない「夏」になるだろう。





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