岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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なぜ源氏と平氏とが武士を率いることが出来たか

2012年06月07日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
NHKの大河ドラマは視聴率が高いだけに、日本人の「歴史に対する認識」に大きな影響を与える。平安時代末期のドラマ化は「源義経」「新平家物語」「草燃える」「炎立つ」「義経」に次いで六回目である。低視聴率が問題になっていると聞いたが、その原因は「フェイスブック」の方に書いたので、「源氏と平氏とが何故武士を率いることが出来たか」について書きたいと思う。

 では、そもそも武士とは何か、どこに起源があるのか。そこから書いてみる。

 平安時代といえば「貴族の時代」「公家の時代」との印象があるが、それは「京の都」でのこと。政治の中心に貴族・公家がいたのは間違いない。

 だが地方では、少し様相が異なる。律令制は「公地公民」「班田収授」が原則だが、それは奈良時代にはしばしば機能しなくなり、軌道修正が図られた。それが平安時代初期に始まった「格式(きゃくしき)」である。これは律令という法律の追加法としての性格を持つ。律令に規定のない「令外官(りょうげのかん)」というものが多く定められた。征夷大将軍や鎮守府将軍や検非違使などもこれに入る。

 つまり律令という法律が、社会の現状に合わなくなってきたのである。征夷大将軍・鎮守府将軍・検非違使・北面の武士などは、武士が任命された。

 征夷大将軍は蝦夷(東北地方の人々を指した名。えみし)と戦う時の臨時の司令官である。当時、蝦夷は中央政府の支配下にはいっていなかった。蝦夷と呼ばれたのは、文化的差異のなせる技であった。中央政府はそこを服属させて、古代国家に組み入れようとしたのである。

 鎮守府将軍は、国家に組み入れた蝦夷を支配統括する司令官である。これは陸奥の国の国府や柵と呼ばれる城や多賀城に常駐したが、臨時の役職であり、平時は陸奥の守が支配にあたった。

 検非違使は京の都の警備にあたり、北面の武士は院の警備にあたった。ともに京の都に限定された役職である。だが、武士が任に当たったとおり、武士を率いた武士団の長であることに変わりはない。

 征夷大将軍・鎮守府将軍は多くの武士団を率い国家の武力装置となった大規模なものであるのに対し、検非違使・北面の武士は一族郎党のみを率い、京の都という都市が守備範囲だった。

 では何故武士がこれらの役職に登用されたかというと、地方では「公地公民」の原則は崩れ、私有地が認められ始めた。荘園がこれに当たる。成立事情は様々なのだが、公的な土地台帳に所有者の氏名が記入されるわけではなかったから、土地の境界争いが絶えなかった。

 そこで、農場主を始め農民が武装した。これが武士の発生である。農場主は開発領主(かいほつりょうしゅ)であったり、地方に下向して、そのまま土着した国司の末裔であったりした。いずれにせよ一族や配下の者が武装し、大小の武士団が出来た。

 この大小の武士団がより強い軍事力をもつためには誰もが従い得る者、つまり大武士団の棟梁が必要だ。この棟梁に担ぎ上げられたのが、源氏と平氏とである。源氏も平氏も皇室の血を引く。清和源氏・嵯峨源氏など様々な源氏、様々な平氏があるのだが、その中でも清和源氏と桓武平氏が力を持った。天皇の末裔であるところから、「貴種」と呼ばれた。それが、平清盛と源義朝である。

 時代の要求と地方の実情と実態、それと貴族・公家の軍事的無力さが、武士の台頭を必然ならしめたと言えよう。つまり武士階級が、軍事貴族として、さらには幕府の長である征夷大将軍として、公家や朝廷や院にかわって、政治の表舞台に登場するのである。

 なお平氏政権の性格については、「激動の時代を武力で抑えつける」とされ、「院政による武士の登用」「在地領主制の進展」との関係で述べられることが多い。(石母田正「古代末期政治史序説」、安田元久「院政と平氏」、永原慶二ほか編「日本史を学ぶ・2・中世」)

 その武士が、佐藤義清(さとうのりきよ=憲清とも書く)、つまり後の西行のように和歌をたしなんだ。武装貴族としての教養、ステイタスシンボルでもあった。

 西行については、高橋英夫「西行」、小説では辻邦夫「西行花伝」がわかりやすい。また蝦夷については、高橋富雄「蝦夷」「奥州藤原四代」が詳しい。





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