「運河」376号 作品批評
(去年剪定をした山椒の歌)
剪定、枝打ち、間伐といった行為は、新しい芽を出させるために行う。去年、作者は剪定を思い切りしたのであろう。それによって山椒は新しい命を授かったかのように多くの実をつけた。植物の生命力を的確に捉えた作品である。
(円形の虹の歌)
珍しい自然現象である。それを言葉で説明せずに「惜しみて」と主観語を入れることによって、抒情詩としての普遍性を得た。美しいものを美しいと感じ、詩として昇華することの大切さを思う。
(春風に靡く薔薇の歌)
下の句の表現に作者の独自性が感じられよう。ばらの花は美しいが、それが「自らの棘にふれて傷つく」という。まるで人間を暗示しているかのようだ。暗示は象徴につながり、事実を詩的に把握するうえで重要な要素だ。全部言ってしまっては説明になるというのはこの暗示がないためだ。
(夜半の伊良湖水道の歌)
一首のなかに固有名詞を入れると、情感が固定されてしまう場合が多い。特に観光名所の地名を入れると、絵葉書短歌となってしまう。しかし掲出の一首には固有名詞が活きている。作者の住んでいる愛知は、昔は尾張、三河と呼ばれ、この地方の水運の要衝であった。中世の水軍を思わせる作品だ。
(汗と泥にまみれて農作業をする歌)
営々と農業に携わるのは、ある種、尊敬に値することである。しかし、それは自分の体を汚すことによって成立する。下の句のこの把握が作者独自のものであると同時に、逆説的であり、はっとさせられる作品と言えよう。
(沈黙して会より帰る歌)
何の会であろうか。一首からはわからぬが、「沈黙を守りて」とあるからは、作者にとって、何か不本意なことがあったのだろう。その人間関係の具体を捨象し、暗示にとどめたのが成功した。しかも、下の句で、自分の心を浄化するような心情が加味された。暗示に富み、抒情が強く伝わってくる作品だ。
(分譲地が草むらとなった情景の歌)
都市化の進む景を捉えた作品。分譲地になるというのは、自然の草はらが消滅するのを意味する。しかし、都市化の中でも、自然が消えた訳ではなく、おそらく、しぶとく待宵草が咲いたのだろう。「いっせいに咲く」と表現したところに、自然の大きさを感じる。
(路地裏に落ちた揚羽蝶の歌)
夏が終わり、黒揚羽も命を終えた。それを作者は「さびしきもの」と捉えた。生のあわれを感じさせ、それに対する作者のいとおしみが感じられる作品である。黒揚羽と一度言い、再度さびしきものと言うのは賛否両論あろうが、作者の感受がストレートにはいってくるので取りあげた。
(片翅の蝶の飛ぶ歌)
何が原因で片翅になったかはわからない。だが、片翅となってもなお飛ぼうとする蝶に生命の強さを感じる。勢いて咲くかたばみが蝶にその力を与えているような連想を引き出す作品である。
(耕運機の音の静まった田の歌)
目に見える景を、丹念に見、丁寧に表現している。短歌を詠む場合には、五感をはたらかせるのが重要だが、そのうち先ず視覚をはたらかせる必要があろう。目に見えるものを表現できなくて、心理詠、社会詠が詠めるはずもない。よく言われることだが、「歌を詠むにはモノを詠め、景が顕つように詠め」である。
(霧晴れて韓国岳を見上げる歌)
何の変哲もない風景だが、下の句の表現にある種の面白さがある。当たり前の景を詠んでも、詠み方によっては心に響く場合があるということを記憶しておきたい。「韓国岳」という固有名詞が、そういう思いを引き出すはたらきをしているのだろうか。
(殺生を詫びつつステーキを食べる歌)
上の句の把握が作者独自のものである。なるほど肉食は「殺生」に違いない。それを「詫びながら」ステーキを食べる。食べる人の人柄が現れている。その父が「少しのワインに饒舌となる」のだから、家族の団欒が目に浮かぶようだ。
(五分落ちの桜の歌)
叙景歌の佳詠。主観語のはたらきもほどよく、くどくない。
*著作権があるので、作品は明示しませんでした。暗示、連想、象徴、捨象という概念は、斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論の核心となるものです。*