短歌表現の特性
「短歌は定型の現代詩である。」『星座』の尾崎左永子主筆は言う。僕もつい最近まで、そう考えてきた。現代詩であるとともに、抒情詩でもある。抒情詩であるということは斎藤茂吉も佐藤佐太郎も言っている。
だが、現代詩とは明らかに違う。現代詩に定まった形はない。近代詩には定形詩があったが、現代詩にはない。「現代詩は作者が作品ごとに、形を決める。」と詩人が言う。
「詩人の聲」に参加して、短歌と現代詩の違いをしばしば感じる。その違いは、「新劇」と「歌舞伎」ほどに違う。「新劇」と「歌舞伎」は、演劇という共通項がある。だが「歌舞伎」には型がある。それも伝統のある型だ。
短歌(5・7・5・7・7の型を持った韻文)は、万葉集から数えても、1500年以上の伝統がある。1500年以上続いたと言うことは、この韻文の「しぶとさ」を表わしている。
短歌は韻文である。これに異論はなかろう。では短歌は現代詩たりうるか。佐藤佐太郎が言ったように、「短歌に現代の社会や思想を盛り込むのは可能」だ。しかし、伝統にもとづく、文語表現、旧仮名、5句31音の定型。これを念頭に入れなければ、短歌とは言えない。(文語、旧仮名を表現に使うかどうかは、別の問題として。)
一方の現代詩。短歌が考慮せねばならないことは、なに一つない。明らかに短歌と、現代詩とは異なる。だが抒情詩としての、共通項はある。
そこで僕はこう考えた。
「短歌は現代の定形詩である。」
これで短歌表現の特性と、現代詩との違いが、一言で表現出来ると思うのだが、いかがだろう。抒情詩であるからには、現代詩から学べることは多いはずだ。最近は僕の本棚に、詩集が増えた。このブログの書評で、詩集をとりあげているのも、ここに意味がある。
では、短歌と俳句との違いは何か。これは国文学者の中西進が的確に表現している。
「短歌は『情』を表現する。俳句は『言葉の付け合せ』」
これに幾らかの追加をしよう。僕は俳句を作ろうとしたことが何度かあった。本棚には句集も何冊かあって、時折読み返す。その印象で言うと、短歌の方が、韻文としての、『文』の要素が大きい。俳句は、単語の付け合せという性格が強く、韻文の『文』としての性格が希薄な感じだ。俳句の方が当然、短い。
その分だけ俳句の方が、象徴性、暗示の傾向が強いと思う。
断っておくが、どの詩形が優れているかの話ではない。現代詩、短歌、俳句には、それぞれ異なった特性があると、思うのだ。
「言葉遊び」は論外だ。なぜなら、言葉遊びに主題はない。主題のない文学は有り得ないからだ。以前の記事にも書いたが、塚本邦雄、寺山修司の作品にも、主題はある。「単なる言葉遊び」ではない。(「日本語の美しさを表すために言葉遊びをする」とブログに書いている歌人(例えば武富純一『鯨の祖先』の著者)がいるが、それは言葉遊びとは違う次元の話。文学性とは無関係だ。しかも作品が「語呂合わせ」では話にならない。
「伝統を学び、型を身につけ、自由に作品を創作しましょう。」尾崎左永子の言葉である。