岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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斎藤茂吉30歳:「赤茄子の歌」の幻想性・象徴性

2011年02月05日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり・

 「赤光」所収。1912年(大正元年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」36ページ。

「赤茄子」はトマトのことだが、「腐ったトマトの転がっている(たぶん)ところ」、道沿いに畑が広がっているのだろう。その近くを偶然通りかかったのだ。意味はそれだけだが、その背景に不思議な世界が広がる。

 先ずは茂吉の自註。

「赤茄子はすなわちトマト(蕃茄)で、私の少年のころ、長兄が東京からその種を取り寄せて栽培したが、そのころも矢張り赤茄子と云ってゐた。大正元年頃でもトマトと云った方が却って新鮮に聞こえるのであったが、一首の声調のうへから、赤茄子と云ったのであっただろう。これは東京の郊外で作った。この一首は、意味が分らぬ、曖昧である、誤魔化であるなどと批評されたものであるが、・・・字面にあらはれただけのもので、決してその他のからくり無いのである。トマトが赤く熟して捨てられて居る。これは現実で即ち写生である。作者はそれに目をとめ、そこを通って来たが、散歩にしてふと何かの写象(=印象)が念頭をかすめたのであらう。その写象は何であっても、読者はそれを根堀り葉堀り追究するには及ばぬ底の世界である。恋心であっても、懺悔であってもかまはぬ境界である。併し結句に< 歩みなりけり >と詠嘆してゐるのだから、一種の感動が付帯していることがわかる。」(「作歌40年」)


 続いて佐藤佐太郎の評価。

「何の目的でどこへ行ったという事件的なものではなく、単にしばらく歩いたということである。・・・挽夏の光には成熟の果ての疲労と哀愁とが漂っているだろう。・・・(このような)象徴的な新しさは、どこから来ているか。作者に暗示を投げかけたものが何かありそうにも思えるがはっきりしない。ボードドレール(フランスの詩人。象徴派の先駆、芸術至上主義・頽廃主義の代表者。< 広辞苑のよる >)の境地に通うところもあるが、それは偶然の一致であろう。」(「茂吉秀歌・上」)


 昨日の記事でとりあげた作品はヴェルレーヌ的世界であり、この作品はボードレール的世界。ともに「象徴主義」と関連が深い。そこが北原白秋の「桐の花」との共通性をしばしば言われるところであるが、白秋とのちがいは、言語感覚だけでなく、実景・具象に重点を置いているところだ。写実的であり、かつ象徴的である。

 僕はこの作品に、孤独とアンニュイ、底知れぬ悲しみのようなものを感じる。それら混沌としたものが出現し、幻想的な世界だ。そういう心情、うつむいて沈んだ心で歩いていなければ、「熟して捨てられているトマト」などには目をとめぬだろう。そのときの心情のありかたにより見え方が違ってくる。

 おそらくその心情をはっきり説明するのは、作者にも出来ないだろう。そういう雰囲気が「作歌40年」の自註にあらわれているように思う。

 「未来」に所属する人のブログにもそのような事が書かれていた。実景や具象を詠みながら心情を投影させる。それが茂吉や佐太郎の写実であり、「茂吉対白秋」というシンポジウムで岡井隆が茂吉派に与したのもその辺にあるのだろう。

 それだけ深い世界を内包しつつ、具体をしっかり把握し表現しているのであり、何か寓意とかカラクリがあるとは僕には思えない。「腐れてゐたる」という俗語感覚も、結句のやや古風な表現によって消されている。「腐れて」をことさら強調した読みは、茂吉の自註にあるように「字面」から見ただけの皮相的な理解といわざるを得ない。一首を細かく分解しすぎてしまっては、「木を見て森をみない」ことになりかねない。


 岡井隆・小池光・永田和宏「斎藤茂吉・その迷宮に遊ぶ」のなかで、永田和宏が難解歌のひとつに挙げているが、「写実をつきつめていけば象徴にいたる」という茂吉の自註と佐太郎の「ボードレール的世界」という把握、それとこの記事の内容でで十分。それ以上の詮索は無用だ。

 作品の背後に何か大きなものがあるように暗示されていれば、その暗示する具象(この場合「赤茄子」)が象徴であり、それゆえこの作品が詩として成立するのだと僕は思う。

最後に塚本邦雄の言葉を引用しておく。

「詩歌とは、詩歌のおもしろみとは、つひにそのやうなものであり、曰く言ひがたい、理不尽な美の幻想を、彼自身垣間見たことを知らずに。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・赤光・百首」)





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