・いつしかに音むつまじく降る灰とおもひて聞けばときながく降る・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」118ページ。
佐太郎による自註から。
「実際の経験を重んじる作歌者にとってはめぐまれた幸運というものが一生のうちに何回か訪れるものだが、このときがちょうどそれだった。・・・< 音むつまじく >は、明恵上人の歌におなじような用例があるのを心にとめていて、この時利用した。物音について< むつまじく >と言ったのがちょっとした工夫だろう。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
「自註」によれば、突然の地鳴り、爆発音のあと灰の降る音に変わったとある。おそらくサラサラ、あるいはザラザラという音だろう。雪や木を燃やした灰と違って火山灰は「灰」という言葉がついても、微小な砂状のものだからである。車のフロントガラスが傷つくほどだ。(自註で「めぐまれた幸運」というのは、滅多にない天変地異に遭遇したという意味であって、噴火を喜んでいるのではないことは言わずもがなである。現在、霧島連山が噴火して多くの人が困難に直面しているので、一言付け加えさせて頂く。)
そこをオノマトペを使わずに表現したところが工夫だろう。さらに、普段なら荒々しく聞こえるザラザラという音が、爆発音のあとだけに「むつまじく」聞こえたのだろう。人間の感覚はそれほど相対的なものだ。後年「那智の滝の水が曲がる訳はない」と言われた佐太郎が「そう見えたのだ」と深入りしなかったのと同じである。
「むつまじく」は過去に用例があって「心にとめてい」たとあるが、正確には「とまって」いたのだろう。意図的に使ったのではなく、印象的な言葉は自然と頭の中に残る。そうやって語彙は増えていくものだ。これは僕の経験則。
また初句の「いつしかに」は時間の推移を一言であらわす機能を果たし、「ときながく」というのは、時間がゆっくり流れるような感覚を表す。「時間の切り取りの名手」と言われた佐太郎の面目躍如である。さらに結句は作者の主観であり、噴火という「客観」を詠みながら、「主観」を巧みに入れる佐太郎の特徴があらわれている。「客観・主観の結合」である。これを佐太郎は「虚と実の出入り」と言った。
僕はこれを「具象を情感を表現するにあたっての象徴として詠んだ」と理解している。岡井隆の言う「象徴的写実歌」とはこのことだろう。象徴的ではあるが抽象的ではなく、具象が引き立っている。これは斎藤茂吉の「汎神論的写生」と「客観写生」に徹した長塚節の「写生論」の発展的継承のあとも見られると言っていいと思う。長塚節は「写生」を方便とするなという立場だが、「各人が工夫すべし」という見解だから、おそらく、
「僕はこういう詠み方はしないが、作者の責任でこういう行き方はありうる。」
とでもいうだろう。