岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

ブナの木通信(『星座』75号より)

2015年10月05日 23時59分59秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
「ブナの木通信」『星座』75号より


 「短歌は詩である」と断言したのは佐藤佐太郎。詩の条件は、リズムと人間の抒情、美的世界を表現することであろう。作者の世界観や人間観の感じられる作品に注目した。

 (息子に死生観を語る歌)


 人間は死後の事を考えるものだが、作者はそれを息子に語っている。下の句に作者の覚悟が感じられる。死後の覚悟は、生きる覚悟でもある。


 (若やいで海を泳ぐ歌)


 下の句の沖縄語の使い方が独特である。齢を重ねても、心は若くありたいもの。作者はそれを泳ぐときに感じたのだ。


 (自分の過ごしてきた時間を思う歌)


 作者は歌を詠う。その時に、自ら過ごして来た時間を振り返る。その時間は、時に苦しいものであったろう。


 (自らの命運を知った人の面影の歌)


 死期を悟った人であろうか。作者の知人はその時に、花を見たという。如何なる気持ちで花を見たのだろうか。作者はそれに思いを馳せている。


 (蛍に命ある者の確かさを思う歌)

 人の命ではない。蛍の命だ。蛍の放つ光はかすかだが、闇夜には驚くほど明るい。その明るさを作者は、「命あるものの力」と捉えた。


 (土を分けて咲いたサフランに解放感を感じる歌)

 土を割ってサフランが花をつけた。だれの死だろうか。それは詳らかでないが、その死と入れ替わってサフランが咲いたのだろう。死は重苦しいが、花が咲くことにより解放された感じを作者は抱いた。命あればこそ、人は悩み、苦しむ。


 (敗戦70年に責務を感じる歌)

 戦後70年。語り継ぐべきことは多いだろう。先の戦争では、邦人であるかどうかを問わず多数の人が死んだ。8月15日は、その命の重みを問い直す日と言ってよいだろう。

 
 (ベンチで空を見上げる歌)

 作者の苦悩は深く大きい。




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