岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

神奈川県立多摩高等学校の3年間と僕の文芸

2009年07月20日 23時59分59秒 | 多摩高20期同窓会
(一人称を僕と呼ぶのは、「私」は「公」に対する言葉であるという見解に基づく。「運河」設立同人、及び斎藤茂吉に倣った。)

 歌壇では50代は中堅である。1960年生まれの僕は、さしずめヒヨコという事になる。しかも、短歌を始めてまだ10年ほど。一発で総合誌の新人賞を受賞するのは、よほど巡りあわせがよいかモンスターの様な人だと思う。

そういう幸運な人は別として、修行20年が普通。どちらかと言うと職人の世界に近いところがある。とはいえ、新聞記者は文章修業をし、写真家も「報道写真」「商業写真」を問わず基礎鍛練の時期がある。作家も同様と聞いたことがある。修行期間があるからといって、ことさら「短歌の古い体質」などと強調することもなかろう。

 「僕の文芸活動」に書いた様に、僕は比較的上達がはやかった。当然、「なぜ」と問われる事が多い。なぜだか自分でも分からないが、ひとつ言えるとすれば、ムキになったことだろう。「3年間はムキになりなさい。そうすればあなたの作品は相当サマになって来るでしょう。そのまま5年間続けなさい。そうすればあなたの作品は先輩の作品と比べて、そう見劣りのしないものになるでしょう。」という島田修三の言葉がある。それを真に受けて実行したところは、いささか大人げなかったかも知れないが、何故か本気になってしまったのだ。

 素地という言葉がある。土台とか基礎という意味だが、ほかの人になく僕に何かがあったとすれば、そのようなものかと思う。

 小学校5年生で初めて「百人一首」を知った。新学期そうそうミズボウソウで長期欠席したあと、最初に登校した日の国語の授業が、クラスをあげての百人一首大会。驚いたの何の。必死で「田子の浦に・・・」で始まる山部赤人の歌だけをその場で覚えたのは、結構スリリングだった。

小学校6年生で島木赤彦の短歌に出合い、中学では学年全体の百人一首大会。連日放課後の教室で特訓をした。中学3年で初めて李白の詩を読んだ。担当の先生が話してくれた。

「君たち、この詩の魅力がどこにあるか分かる?<悲しい>ってどこにも書いてないでしょ。それなのに悲しさが伝わって来る。これが詩というものなんです。」


 その次が多摩高の3年間である。年表風に書いてみると、次のようになる。

・1975年 多摩高入学、高校1年。
  写真部入部、会津方面へ撮影旅行。現代国語の授業で口語自由詩に興味をもつ。
  夏休み、クラスで尾瀬登山。

・1976年 高校2年。
  漢文の授業で「史記」を読む。風疹で長期欠席。修学旅行委員。

・1977年 高校3年。
  日本史の授業に熱中。古文の授業で「源氏物語」を読む。卒業アルバム委員。
  翌年3月の卒業式は欠席(大学受験日のため)

 1年の現代国語の授業では、「ぴすとる」「ピストル」「拳銃」の語感の違いを心に刻んだ。2年の漢文の授業では、読み下し文の5音7音のリズムに魅了されて暗唱した。(漢文の先生は「いいね~。」が口癖の名物教師だった。)3年の古文の授業では「源氏物語」の和語の美しさを実感した。

 現代短歌の評価基準に「韻律性にすぐれているか」というのがある。「韻」は言葉の響き・語感であり、「律」はリズムである。本格的に短歌を始める前に、「語感」と5音7音の「リズム」を身につけていたことは、作歌にあたっての幸運な出発だった。

 もう少し具体的に言おう。まずは1年生の現代国語の詩の授業、これは面白かった。散文だか韻文だか分からない僕の言葉の羅列を、「こういう考え方もあるんだ。」と担当の先生は、生徒の作品集の末尾に掲載して、担当する全生徒に配布した。「何だこれは」という声があちらこちらから聞こえてきた。明らかな失敗作だったが、思い切った実験作を仲間の間に提示する(ある雑誌で「自由に大胆に」と評された)態度の原型はこの辺で形成されたように思う。

 次に「源氏物語」の授業。担当の先生に紹介された古典関係の本をその日のうちに買い、むさぼるように読んだ。歌人はよく王朝文学を研究する。短歌が伝統にしがみついているように思われる原因のひとつでもあるのだが、それを抵抗なく受け入れられる素地はこのあたりにあるのかも知れない。

 3年間ずっと写真部の活動をし、下手な写真を撮り続けたのも無駄ではなかった。最近ある新聞で1枚の写真を見た。1950年代末に撮られた「裏日本」という写真である。泥田のなかに農婦がひざまで泥につかっている。もちろん体中が泥だらけなのだが、顔は写っていない。高校の時に写真集で見たものだ。新聞記事のコメントはこうだ。「この写真に顔は必要ですか」。もちろん必要ない。あれば説明になってしまう。高校時代の僕はそれを明確に指摘できなかったが、撮影の時のフレーミング、現像のときのトリミングに頭を悩ませたのが活きている。

 1年生の尾瀬登山と2年生の修学旅行も貴重な体験だった。高原や高層湿原・見知らぬ土地を訪ねた時の感覚は、高校時代に経験したものと重なる。尾瀬には大学のワンゲルでも行ったが、高校時代にたずねた尾瀬がニッコウキスゲの群落のなかだったのに対し、大学で行った尾瀬は一面の枯草のなかだった。尾瀬の二つの表情を見られたのは幸運だったかもしれない。

 大学の学問としての歴史学は、高校の日本史の授業とはかなり異なっていた。しかし、そこで培った歴史学文献学の手法は国文学を専攻した多くの歌人とは違う角度からの評論や短歌史の見方を支えている。茂吉や佐太郎の書き残したものを掘り出して再構成するのは、直接薫陶を受けた人々とはちがった視点で、茂吉や佐太郎を見ることを可能にしている。いま興味があるのは、近代短歌と社会経済の状態の関係、近代短歌の時代性である。

 高校時代、僕は数学と英語がだいの苦手だった。きっかけは2年生の時のあの風疹による長期欠席だった。だから数学は、「もう一生やることはあるまい」と腹をくくって、2年の学年末テストで踏ん張った。英語は、高校卒業後にTOEICスコア700に迫るまでやり直した。これで勘弁してもらおうと思う。

 しかし、30年へた今、僕の文芸の核の部分に多摩高の3年間が揺るぎなく座っているのを感じる。「星座の会」の尾崎左永子主筆は、僕のことを「詩才のある若手」と呼んでくれる。

 また「運河の会」の長沢一作代表は、茂吉や佐太郎の文献を掘り返しながら次第に形になってきた僕の作品を「ものの見方に工夫がある」と言ってくれる。しかしそれらは才能などではなくて、あの多摩高の3年間に醸し出されたものが、編み込まれたようなものではないかと、この頃しきりにそう思う。

(最後に重要なことを思い出した。2年生の合唱コンクールの自由曲「ふぶき」<合唱組曲・蔵王>。作詞者は尾崎左永子氏だった。そう思うと一層の縁(えにし)を感じる。)

*神奈川県立多摩高等学校20期同窓会のブログに投稿した文に手を入れました*


付記:高校時代の年表にあるように僕は高校の卒業式を欠席した。そのころの事を思い出すと、何か中途半端な気持になるのが常だった。

 しかし、2009年6月の「50歳記念同窓会」(健康上の理由で二次会だけ)への出席は、僕にとっては事実上の卒業式だった。




最新の画像もっと見る