岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

ブナの木通信「星座」89号:茂吉と佐太郎の歌論に学んで

2019年04月29日 01時40分31秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
「ブナの木通信」
                 「星座89号」より。


・(人の暮らしを悲しむ歌)

思い通りにならぬことの方が多いのが人の世の常。それでも人は願いや希を持つ。何とも悲しいが、それが人間らしさであろう。深く切り込んだ作品。

・(昼と夜の境界に身を委ねる歌)


 所謂、薄暮の時間。事故の最も多い時間帯とも言われる。その時間に身を委ねる、と言う。如何なる心境か。それは語られていない。余剰のある作品だ。


・(猫に待たれる歌)


 人を待つ、待たれるというのはよくあることだが、人に待たれるとは格別の意味がある。期待されると同じ意味もある。心がぬくもるが、相手が猫であるだけに一抹のさびしさが漂う。

・(蜘蛛の巣にかかった虫の歌)


 蜘蛛の巣に虫がかかっている光景はよく見ること。それを「捉えられた命」と作者は捉えた。ここに独自の着眼点がある。

・(初秋の戦場ヶ原でホザキシモツケを求めて歩む歌)

 水芭蕉やニッコウキスゲで華やぐ初夏から夏にかけての時期とは違い、初秋の戦場ヶ原は風が冷たく趣を異にする。ホザキシモツケはバラ科の植物で夏に花をつけるが、絶滅危惧種にも指定されていた。今は解除されているが希少植物には違いない。それを花の終わった季節にさがす。ここに一首の味わいがある。


・(戦時下に疎開児だった自分を庇ってきれた人と語り合う歌)

 戦時下の租界の苦労を分ちあった人と方言で話す。疎開先の言葉でであろうか。重い体験だ。こうした体験が風化しつつあるのには一種の危惧を覚える。

・(哲学者の顔のような秋の雲の歌)

 読んでいて思わず膝を打った。確かにそうである。雲の形容にもユーモアがある。大自然が語りかけている「騒ぐでない」。結句が8音だが、ほとんど気にならないのは一首の中に溶け込んでいるからだ。

 選評にあたり10首を目安に選ぶが多くを割愛した。また6首選ぶのに割愛したものも多い。良いと思うものは再挑戦を。




最新の画像もっと見る