足かけ3年に渡った「共同研究、前衛短歌とは何だったのか」いよいよ最終回。話題の中心は「前衛短歌の始まりはいつで、いつが終焉か」。昨日の記事で「塚本邦雄の『前衛短歌』は1970年に終わった」という趣旨のことを書いたが、当事者、同時代の歌人の発言から見ても、妥当なようだ。
1・前衛短歌の始まり:
・岡井隆:
「戦後派(近藤芳美、宮柊二ら)の仕事に不満だったのが(前衛短歌の)動機。第二芸術論を受けて、現代詩のモダニズムの流れを重視していた。」
(=「モダニズム短歌」特集は「短歌現代」2004年9月号にもあるが、モダニズム短歌には、ダダイズム、シュルレアリズム、美術の立体派、表現主義の影響を受けた、筏井嘉一・前川佐美雄・斎藤史・加藤克己らがはいるとされる。「反レアリズム」。)
・篠弘:
「点としては『水葬物語』の昭和26年(=1951年)に始まるが、実質的には、昭和29年(=1954年、『装飾楽句』が現代短歌の起点として見落とすことのできないターニングポイントだ。
・永田和宏:
「『短歌研究』の特集『モダニズム短歌』(1950年・昭和26年)あるいは『装飾楽句』(1954年・昭和29年)が前衛短歌の始まりだということで歌壇史的にはいい。」
・その他:
「『青年歌人会議』(=1956年・昭和31年)とそれに先立つ『青の会』が運動体だった」(岡井隆)。
「昭和28年(=1953年)の迢空・茂吉の死のあとに突破口が見えなかった」(篠弘)。
2・前衛短歌の終わり:
・岡井隆:
「僕は1970年(=昭和45年)に西へ行っちゃいましたから、あの辺で決着をつけたつもりでいる。」
・篠弘:
「『東京歌人集会』の『現代短歌66』というアンソロジーがあったが、これが一種きわだつ締めくくりだったのではないか。(そのなかの岡井隆の一首は)前衛短歌のある種の終息を暗示する。」
・三枝昂之:
「思想表現を手放したときが前衛短歌の終わりだと見ている。1967年(=昭和42年)から69年(=昭和44年)あたりだ。」
・馬場あき子:
「運動体としての前衛短歌のことなら、終わりがあってもいい。ただ終わるというのは短歌史を打ち切ることで、口語短歌が出るまで(前衛短歌という思想が)続いていると考えてもおかしくない。」
(=「前衛短歌という思想」とは、現在の自分に安住せず「訓古学」に陥るなと僕は読んだ。)
「女の立場から言うと『彩・女流5人』(=尾崎左永子、馬場あき子、北沢郁子、大西民子、山中智恵子)というのがあった。これは男中心の前衛短歌への物言いだった。・・・(だから)女に前衛短歌はなかったといえる。」
・永田和宏:
「(篠弘の発言は)爆弾発言だ。自分が前衛短歌最後の世代と思っていたが、実は自分はいってなかったことになる。」
3・その他の発言など:
佐佐木幸綱がアニミズムの話をしたが、出席者の誰もそれに応じなかった。また穗村弘が「前衛短歌の志を継いでいる」という話も全く出なかった。
「前衛短歌年表」は1949年(昭和24年)から1969年(昭和44年)まで。1970年(昭和45年)で前衛短歌が終わったということでほぼ間違いない。
12月号の奥田亡羊、小島ゆかりの発言(司会:佐佐木幸綱)はやはり説得力に欠けていたようだ。
前回の座談会で、佐佐木幸綱は、奥田亡羊が「アニミズム的」、小島ゆかりが、佐佐木幸綱を介して、ライトバースが「前衛短歌」の志を継ぐと発言した。これらの内容は、この座談会で、問題にされなかった。