岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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「角川短歌」1月号:「共同研究最終回」:前衛短歌の始めと終わり

2012年01月02日 23時59分59秒 | 私の短歌論
足かけ3年に渡った「共同研究、前衛短歌とは何だったのか」いよいよ最終回。話題の中心は「前衛短歌の始まりはいつで、いつが終焉か」。昨日の記事で「塚本邦雄の『前衛短歌』は1970年に終わった」という趣旨のことを書いたが、当事者、同時代の歌人の発言から見ても、妥当なようだ。


1・前衛短歌の始まり:

・岡井隆:
 「戦後派(近藤芳美、宮柊二ら)の仕事に不満だったのが(前衛短歌の)動機。第二芸術論を受けて、現代詩のモダニズムの流れを重視していた。」

 (=「モダニズム短歌」特集は「短歌現代」2004年9月号にもあるが、モダニズム短歌には、ダダイズム、シュルレアリズム、美術の立体派、表現主義の影響を受けた、筏井嘉一・前川佐美雄・斎藤史・加藤克己らがはいるとされる。「反レアリズム」。)

・篠弘:
 「点としては『水葬物語』の昭和26年(=1951年)に始まるが、実質的には、昭和29年(=1954年、『装飾楽句』が現代短歌の起点として見落とすことのできないターニングポイントだ。

・永田和宏:
 「『短歌研究』の特集『モダニズム短歌』(1950年・昭和26年)あるいは『装飾楽句』(1954年・昭和29年)が前衛短歌の始まりだということで歌壇史的にはいい。」

・その他:
 「『青年歌人会議』(=1956年・昭和31年)とそれに先立つ『青の会』が運動体だった」(岡井隆)。

 「昭和28年(=1953年)の迢空・茂吉の死のあとに突破口が見えなかった」(篠弘)。


2・前衛短歌の終わり:

・岡井隆:

 「僕は1970年(=昭和45年)に西へ行っちゃいましたから、あの辺で決着をつけたつもりでいる。」

・篠弘:

 「『東京歌人集会』の『現代短歌66』というアンソロジーがあったが、これが一種きわだつ締めくくりだったのではないか。(そのなかの岡井隆の一首は)前衛短歌のある種の終息を暗示する。」

・三枝昂之:

 「思想表現を手放したときが前衛短歌の終わりだと見ている。1967年(=昭和42年)から69年(=昭和44年)あたりだ。」

・馬場あき子:

 「運動体としての前衛短歌のことなら、終わりがあってもいい。ただ終わるというのは短歌史を打ち切ることで、口語短歌が出るまで(前衛短歌という思想が)続いていると考えてもおかしくない。」

 (=「前衛短歌という思想」とは、現在の自分に安住せず「訓古学」に陥るなと僕は読んだ。)

 「女の立場から言うと『彩・女流5人』(=尾崎左永子、馬場あき子、北沢郁子、大西民子、山中智恵子)というのがあった。これは男中心の前衛短歌への物言いだった。・・・(だから)女に前衛短歌はなかったといえる。」

・永田和宏:

 「(篠弘の発言は)爆弾発言だ。自分が前衛短歌最後の世代と思っていたが、実は自分はいってなかったことになる。」


3・その他の発言など:

 佐佐木幸綱がアニミズムの話をしたが、出席者の誰もそれに応じなかった。また穗村弘が「前衛短歌の志を継いでいる」という話も全く出なかった。

 「前衛短歌年表」は1949年(昭和24年)から1969年(昭和44年)まで。1970年(昭和45年)で前衛短歌が終わったということでほぼ間違いない。

 12月号の奥田亡羊、小島ゆかりの発言(司会:佐佐木幸綱)はやはり説得力に欠けていたようだ。

 前回の座談会で、佐佐木幸綱は、奥田亡羊が「アニミズム的」、小島ゆかりが、佐佐木幸綱を介して、ライトバースが「前衛短歌」の志を継ぐと発言した。これらの内容は、この座談会で、問題にされなかった。






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