少年時代から凝り性で、何かに熱中するとそれに入れ込んでしまう性質だった。夢中でやるものだから、他人から見ると奇異にみえるのかも知れない。そこでいろいろな「特殊」な言葉がかけられることがあろ。相手は誉め言葉として使っているのだろうが、当の本人は心安んじてはいられない。
例えば、
「君の真骨頂は、< 地を這うような活動 >だ。」と言う言葉。
何だか上から見下されているような気になる。「じゃあ彼方はどうなのか。高見の見物か?」と言いたくなる。腹が立つ。別のひとから「そんなに怒ってばかりいると、病気になるよ。」などと言われても、腹が立つ。(その通り病気になったが、後の祭り。)
この件は、
「私には地面を這いつくばった記憶はありません。」それでおしまい。その人から、時々思い出したように連絡がくるが、沈黙するだけである。それほど僕は怒っているのだ。だが相手には通じないらしい。それはそれで可とするか。
物事に熱中するから上達も早い。そんなとき、こんな年賀状をもらった。
「短期間によくここまで這いあがって来ましたね。」
はて、這いあがったという意識は全くないのだが。第一、何かをやって立身するとか有名になるなどとはこの35年一度も考えたことがない。だから次の年の年賀状には、
「私は何かに這いあがったことはありません。」と書いた。今度は相手から返事がなかった。「あれ、今度は相手が怒っちゃったかな。」と思っていた。
先日その人と会う機会があったのだが、その席でこう言われた。
「岩田さんって、もっと怖い人かと思った。」????である。こわもてのひげ面には違いない。知人の子どもをあやして遊んでいたら、こどもはけらけら笑う。そこでその子の親から言われた。
「ほら、鬼瓦おじさんだよ。」鬼瓦はなかろうと言い返そうとしたら、相手はニヤニヤ笑っている。顔を見れば、怒ることもできない。
そういえば、最初の二件は、手紙・葉書のうえでのものだった。
「目は口ほどにものを言い。」という諺があるが、顔もしかりである。ましてメールは。誰が書いても数種類の企画の文字に表示される。初めてメールを受信したときは、
「これからメールを送る。」と電話があった直後だった。だから安心したのだが、誰が打っても企画文字。慣れるまでにやや時間がかかった。やはり重要なことは、直接会って話すに限るようだ。