岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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万葉集から学んだもの:「アララギ」と「心の花」

2010年12月19日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
正岡子規と佐佐木信綱とは多くの接点がある。

 その1。「和歌革新」を志したところ。正岡子規が「歌よみに与ふる書」を新聞日本に発表したのは1898年(明治31年)。佐佐木信綱が「新派和歌」の一翼として「いささ川」(「心の花」の前身)を創刊したのが1896年(明治29年)。その後「根岸短歌会」の同人の作品は、しばしば「心の花」に掲載された。

 その2。短歌革新のためには「古今和歌集」を聖典とする旧派和歌との対峙が避けられなかった。そこで光があてられたのが「万葉集」である。正岡子規は「歌よみに与ふる書」のなかで「古今和歌集」の歌人らを批判し、万葉歌人を絶賛した。佐佐木信綱も「万葉集」の研究に多大な功績を残した。

 その3。「和歌の革新」は与謝野鉄幹らの「浪漫派」が一歩先んじていた。「明星」全盛のころ、「根岸短歌会」と「心の花」は歌壇のなかの、ごくごく小さな潮流にすぎなかった。機関誌をもたない「根岸短歌会」と「心の花」とのあいだには、子規の没後に合同話があった。佐佐木信綱は「心の花=竹柏会」の解散も一時考えたほどだった。

 しかし時の推移とともに事情が変わってきた。「浪漫主義」にかわり、「自然主義的傾向」の短歌が力を持ち始めたのである。散文の「自然主義」とはかなりことなるものの、金子薫園の叙景詩運動、その門下の土岐善麿の作風は「生活派」の先駆となり、尾上柴舟の門下の若山牧水・前田夕暮も自然主義思潮の影響を受けて自我の心情、日常生活の現実を素直に詠いあげた。

 このころから「アララギ」と「心の花」の距離が離れていく。

 「アララギ」の同人たちは相次いで万葉集の研究書を発表した。しかしそれは、国文学会に出すような性格のものではなく、実作の必要上からのものであった。正岡子規の「万葉論」は「古今和歌集」に対するアンチテーゼであったし、斎藤茂吉のそれも「声調・写生」のよりどころとしての「万葉集」重視という面が強い。その作歌のよりどころが「写生」という概念で表わされたとき、アララギ派の歌人の目は「万葉集」の叙景歌へとむけられた。「写生」という絵画用語をつかうことによって、「フランス印象派」の影響もとくに斎藤茂吉に表れた。そして斎藤茂吉著「万葉秀歌・上下」を読めばわかるように、「調べ」を短歌の中心に据えるようになる。「短歌調べの説」である。土屋文明に至ってはリアリズムまで到達する。

 「心の花」は「おのがじし」と言うように「万葉集」から畾楽さを学んだ。「心の花」の系統から出発した歌人が、モダニズムなどをいちはやくとりいれるなどということも、これで容易に理解できる。戦後になって「前衛短歌」の影響を受けて、独特の作風に達した佐佐木幸綱の歌論の基礎は「短歌ひびきの説」である。俵万智が「短歌をよむ」のなかでわかりやすく説明しているが、短歌の5句(5・7・5・7・7)を5つのブロックと考えて、そこにはいった言葉同士のぶつかり合いが、短歌のリズムをかもしだすとする。

 ここまでくると、かなりの距離である。ひとことで言えば「万葉集」から何をどのように学びとったかの違いに、その原因を求められるだろう。

 僕は「写実」の系譜に連なる結社(雑誌)に実作を発表しているが、それは僕の資質に合うと思って自分の責任で選んだことである。ここでは「アララギと心の花」の優劣を論じているのではないことを、一言付け加えて置く。




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